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「 」 is not here.
ふと見上げると、星が見えた。つい先日までこの時間帯は弱弱しいオレンジが辺りを包んでいたはずなのに、もう風は思わず顔をしかめてしまうほどに冷たい。痛いくらいに澄み渡る空気が、何よりも季節の変わり目を告げている。煌めくあの星は、何という名前だろう。いつもなら帰ってすぐに調べるのだろうけど、今はそんな気持ちにはなれなかった。
もうすぐ、今年も終わる。去年の今頃私は、迫るキャンパスライフの足音に期待を膨らませていたのだろうか。実際この一年、色々なことがあった。高校とは全く違う大学での生活に順応するには時間がかかったし、東京の一人暮らしには多少のトラブルもあった。それでも、多岐に渡る講義から学ぶことは大いにあったし、大学から始めたラクロスにも手応えを感じている。大学生の時間割の空白には驚いたが、それを利用して資格も二つ取った。三日前に親に連絡したときも、充実しているじゃないか、と喜びと安堵の混じった声で言われた。
でもこうやって駅からマンションまで歩くたった十分の間に、形容できない感傷に襲われる。ふと来た道を振り返ればそこには何もなくて、慌てて前を向き直すと今度はゴールが見えない。そんなイメージが胸をよぎる。充実しているのではなく、充実していると思いたいから、色々なことに手を伸ばしているのではないか。本当にやりたいものに出逢えていないから、時折こうして足元がぐらつくのではないか。大学での四年間を過ごせば、嫌が応でも何か見つかるだろうと、高をくくっていた。でも今考えれば、高校に入ったときもそう思っていたような。そして想像よりもずっと速いスピードで、モラトリアムの四分の一が終わる。
何か挑戦していない分野はないかな。そのときふと頭を掠めた、月明かりの下美女が遠き恋人に想いを馳せるワンシーン。昨日見た、とある有名なプロダクションのアイドルが初主演ということで話題を呼んでいる恋愛ドラマだ。勿論、挑戦の対象はドラマの方ではない。
「……恋愛、かぁ……」
年頃の女の子なら誰もがときめくはずのその言葉は、私の口から漏れた瞬間霧散していく。そしてその一言にまつわるとある出来事が、記憶の海から急速に浮かび上がる。確かそれも、星が見ていた出来事だった。
あれは高校3年生の秋の日。グラウンドの声は三分の二になり、代わりに教室の鉛筆の音がよく響くようになる、そんな季節。最後の文化祭だからとクラスメイトに無理矢理にミスコンに出させられ、訳の分からぬままに優勝してしまった私は、放課後の呼び出しの嵐に参っていた。受験生という必殺の断り文句がなければもっと面倒だったか思うと、頭が痛くなる。
その日、私はいつも通り教室で七時まで自習した後、隣のクラスの綾を呼びにいった。高校一年生のとき、声が似ているという不思議なきっかけで友達になった綾とは、家が近いのもあり、クラスが離れた今も一番の友人だった。夜遅くまで学校に残るなら必ず誰かと一緒に帰りなさい、とパパから口酸っぱく言われていた私は、帰るときはいつも綾と一緒。パパの過保護っぷりを理解し残ってくれる綾に最初は感謝していたけれど、居残りしても教室で男子とおしゃべりするだけの彼女に対し、そんな気持ちはもうない。あなたたちも、私と同じ受験生ですよね?
街灯が不規則に夜を照らす帰り道。私は告白ラッシュについて綾に愚痴った。こんなことを話せるのは綾しかいない、と思って打ち明けたのに、当の本人はにやにやしている。
「いやはや、才色兼備の美少女新田美波さんの魅力に今さら気づくだなんて、うちの男子はポンコツだねぇ」
「……私は本当に困って言ってるんだけど。あと、才色兼備に容姿が良いという意味がすでに含まれてるからね?」
自分が美少女なのを肯定しているようなニュアンスで嫌だったけど、一応訂正。
「そんなに面倒だったら、誰かと付き合っちゃえばいいじゃん。そうしたら、誰も言い寄って来なくなるんじゃない?」
綾曰く、その時の私の顔は未知の生物をを見たような目だったらしく、実際私も未知の生物を見たような気持ちで言った。
「……あのねえ、綾。誰かとお付き合いすることを、そんな簡単に決めていいわけありません。それ以前に、私は今受験生だから、誰かとお付き合いしている時間はないし、相手だってそんな時間はないはずよ?」
「……部活やってるときも、そんなこと言ってた気がするけど。確かに美波の浮いたウワサ、残念ながら聞いたことないな」
「何が残念なのかわからないけど。学生の本分は勉強と部活動でしょう?」
「美波の言うことは正しいよ。や、正しすぎて間違ってる気もするけど……でもさ、美波っていつもチャレンジチャレンジって言ってるじゃん? そしたら恋愛にも果敢に突っ込めばいいと思うんだけど。何でそこは消極的なの?」
うっ、と私は言葉に詰まった。綾は普段はいい加減そうに見えて、時折鋭く核心を突いてくる。しばし流れる沈黙をお喋りな彼女が埋めないのは、答えを聞くまで逃がさないという意思表示だろう。私は観念して、さざめくような声で言った。
「……だって一回付き合っちゃったら……結婚とか子供とか、そこまで考えなきゃいけないじゃない?」
「はあ?」
素っ頓狂な声がすっと抜けた後、けたたましい笑い声が夜に響き渡った。……だから、話したくなかったんだ。けど言ってしまった以上、何とか彼女に理解を示してもらう他ない。
「別にいいじゃない、うちの家はそういう家なの! だからママには花嫁修行として料理とか洗濯とか小さい頃から教え込まれたし、パパは自分が認める男なんて世の中いないんだから恋人は考えなくていいって言ってるし……って聞いてます!?」
「あっはっは! イマドキ花嫁修業とか! パパさんも親バカ全開だし! 堅っ! 重っ! あーっはっは!」
「ちょ、ちょっと綾、静かにして!」
綾のあまりの笑いっぷりに、恥ずかしさ以前に近所迷惑になるのではと思ってしまった。無理矢理口を塞ぐと、彼女は必死に抵抗する。しばらくもみくちゃになったあと、ようやく落ち着いた綾が口を開く。
「……うーんまあ、美波の言ってることも、共感はしないけど理解は出来るよ。でもさ、そんなこと言ってたら、この先も恋愛なんて出来なくない?」
「……交際相手に妥協するくらいなら、一生独身でも構いません」
「……確かに、あんたそういう性格だったね……じゃあせめて、理想の男性のタイプを言っていこう! 私はイケメンで高身長の医者!」
先に言われてしまうとこっちも言わなければフェアじゃないのではと思ってしまう私の性格を、綾は上手く突く。仕方なく、私は理想の私の隣の人について話すことにした。
「……ええと、私は……まず、尊敬できる人がいいな。真面目で、真摯で、向上心があって、何事も責任を持って取り組む人。でもちょっぴり弱いところもあって、お互いに支え合う関係になれたらなって思う。それと自分で言うのもあれだけど、私ってどちらかというと甘えられる方だから、逆に甘えられる人がいいかな。そう思うと、大人びている方がタイプなのかも。あと、笑顔が素敵で……」
「も、もういいもういい!」
せっかく興が乗ってきたところなのに、と不満げな顔を見せると、綾は呆れ顔でため息をつく。
「白馬の王子様を待ってるメルヘン少女よりタチ悪いよ、あんた。そんな男、世の中にいるわけないから」
「そ、そうかな……?」
「まあでも、美波も案外、いやかなりスペック高いからね。……うん、確かに。そりゃそこらへんのエロいエロい言ってるバカ男子に美波はやれんわ。……よし。もし彼氏が出来たら、私に紹介しなさい。私があなたにふさわしいか、見極めてあげるから!」
「……は、はあ……」
さっきまでさんざん馬鹿にしてたくせに、都合がいいんだから。それでもどこか許せてしまうところが、綾の魅力だ。……ていうか私って、裏で男子にそんな風に言われてたの?
「じゃ、ここまでね。また明日、美波!」
「うん。また明日、綾」
家まで三分ほど離れた交差点で、私と綾は別れる。うるさい友人がいなくなると、夜は驚くほど静かだ。所在なくなって空を見上げると、濃紺のカーテンに散りばめられた、無数の星たちが瞬いている。家に帰る前に気付いて良かったなと思いながら、私は未来にきっといるはずの大切な人に、想いを馳せたりした。
はじめは独りぼっちだった一番星も、次第に仲間を増やしていって、気が付けば満天の星空の出来上がりだ。その光は今の私には羨ましいほど眩しすぎて目に染みる。雫が落とされた水面みたいに夜空が歪んで、慌てて目をこすった。
もう私の住むマンションの頭は見えている。部屋に入って灯りをつけ、お風呂を浴びてベッドに潜れば、いつの間にかこの感情は消えてしまうのだろう。しかしこの灰色は、密かに、でも確実に心の底にこびりついていて、ふとした瞬間に首をもたげ、私の心を締め付ける。それを払拭したい私は、この寒さの先にある春に期待してしまう。桜舞う季節の、新たな出逢いを。もう何度も裏切られ、きっとまた裏切られるだろうことを、頭の片隅では分かっていたとしても。
しかし裏切られたのは負の予感の方であり、この春、人生を変えるほどの出来事に、しかも何度も出逢うことになるのを、その時の私は知る由もなかった。あの星の名前を教えてくれた、かけがえのない親友。どんなときも支え合える仲間たち。私の本当に進むべき、進みたかった道を、魔法みたいに示してくれた人。そしてもしかしたら、未来の大切な人にも、出逢ってしまったのかもしれない。……魔法使いが白馬の王子様でもあったとしたら、の話だけれど。
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