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「 」 is not here.
――カチン。
時計の針の音が、妙に大きく聞こえた。はっ、と息を呑む。数秒の時を経て、ようやく自分の状況を把握することができた。
自宅のパソコン前。モニターには絵描きソフト。右手にはペンタブレットのペン。
原稿作業の真っ最中だった。時刻は深夜2時。最後に確認した時から数時間は経過している。
締め切りが近いとはいえ、根を詰めすぎていたようだ。だが一度切れた集中は、そう簡単には戻らない。体を伸ばしたり、冷え切ったコーヒーを飲み干したりしても、筆を握り直そうという気持ちになれない。
進捗を確認する。23ページ目までは出来上がっていた。
(仕方ない。大丈夫、まだ少しだけ余裕はある)
何か息抜きをしよう。でもベッドで漫画を読んだり音楽を聞いたりしていたら寝落ちしてしまう。ゲームをしようにも、作業で疲れた頭ではろくにできまい。
結局、ネットサーフィンにした。これなら負担も大きくはないし、何かの拍子にネタを思いついたり見つけたりするかもしれない。
気の向くままに検索し、リンクを踏み、文字や画像を流すように目に映していく。程なくして頭がぼんやりしてきた。だが――いや、だからこそ止め時を見失った。
惰性のままクリック、スクロール、クリック、スクロール……。
どのような経緯を辿ったのかも分からない。
ふと気づいた時。パソコンのモニターには、見覚えのあるページが表示されていた。心臓がびくんと脈打って、朦朧としていた意識が一気に現実に引き戻される。
高校時代に所属していた、漫画研究会のホームページ。フリー素材の壁紙と、デコレーションしすぎて見にくくなった漫研バナー。どちらも記憶の中のそれと、完全に一致していた。
止めていた息を、ゆっくりと吐く。頭の中で、かつての日々がフラッシュバックする。数えられる程度の人数で身を寄せ合い、拙い漫画を描き、細々と会誌を出す。華々しさとは無縁の、けれど心地の良い日々だった。上手く描けたコマを褒め合ったり、流行の漫画を回し読みしたり、教師に隠れてゲーム機を持ち込んだり。
自然と、その時の友人を思い出した。絵や話の好みなど、メンバーの中では最も馬が合った。彼女以上に仲のいい友は、ついぞ出来なかった。
今、どうしているのだろう。少し気になったものの、電話番号も知らないし、卒業してから連絡も取り合っていない。ダメ元で名前を検索した、どうせヒットしないだろうと苦笑しながら。
見つかった。呆気にとられるほど簡単に。
どこぞの商社のホームページの、新入社員特集記事。そこに、新社会人の代表として載っていた。同姓同名という可能性は、添えられた写真で打ち消された。リクルートスーツと就活向けショートヘアになっていても、2年の年月を経ていても、顔つきそのものは変わっていない。薄化粧のせいか、記憶よりも綺麗にさえ見えた。
かつては自分と同じ制服を着て、同じ場所に並んで立っていたはずなのに。
画面の向こうの彼女は、まるで別世界の住人のようで。
一番近くにいたはずの友人が、手の届かない場所まで離れていってしまったように感じて。
バタンッ!!
「おあひゃあ!?」
突然の大音に、素っ頓狂な声を上げてしまう。あと少しで椅子から転げ落ちるところだった。破裂しそうなほどに高鳴る胸を押さえつつ、何が起きたかを確認する。
棚にしまっていたはずの漫画の単行本が、何冊か床に転がっていた。少し雑な入れ方をしていて、いつか落ちそうだと思っていたのだが、それがよりにもよって今だったらしい。
分かってしまえば何とも下らない。深い溜息と共に本を拾い、元の棚へ収納する。今度は落ちないよう、奥までしっかり押し込んだ。
さて、少し怠けすぎた。そろそろ原稿に戻らないと。そう思い、パソコンの元へ向かおうとして……すぐに立ち止まる。自分の部屋をぐるりと見まわす。
よれよれの布団が載った安物のベッド。掛け布団の端には、いつ着たのかも覚えていないジャージが引っかかっている。床にはコンビニのビニール袋やネット通販の空き箱が点々と落ちていた。隅に目を向ければ、思っていた以上に埃が積もっている。掃除機を最後にかけたのは、どれほど前だっただろう。
「…………」
ふたたび溜息。目についたゴミを屑籠に放り投げつつ、パソコンの前に戻る。ブラウザを消して、ペンを手に、再び原稿に向き直る。
24ページ目。作業は進む、すらすらと。
25ページ目。ひたすらに、手を動かし続ける。
26ページ目。まるで、何かから逃げるように。
「…………仕方ないッスよ」
27ページ目。まるで、何かを振り切ろうとするように。
28ページ目。休むことなく描く。描き続ける。
「アタシの方が、別世界に落っこちちゃったんスから」
29ページ目。なぜか、目が痒くなってきた。
「一応これでもバイトくらいはしてるし」
30ページ目。呼吸が浅いのはどうしてだろう。
「それに、まあ。寝て食って、漫画が描けるのなら」
31ページ目。鼻をすすった、そんなに寒くないはずなのに。
「アタシはそれで、それだけで、分相応ッスよ――」
――カチン。
区切のいい所まで駆けた時、時計の音が耳についた。次いで、腹の虫の声も。
針は11時37分を指していた。閉ざしっぱなしのカーテンの隙間から日の光が差し込んでいる。見事なまでの完徹である。疲れきった体を背もたれに預け、特大の欠伸をした。
最後に個体を口に入れたのは何時間前だろう。思い出すことすらできないほど空腹だった。よくここまで没頭できたなと、苦笑するしかない。
その理由に、おおよその察しはついているのだけれど。
「……とりあえず、コンビニでご飯でも買って食べないと」
そのためには外出しなければならない。いくらだらしなくても、今の下着丸出しな姿で玄関を出るほど羞恥心がないわけじゃない。布団の端のジャージに袖を通し、質素なズボンを穿く。癖毛は手で適当に押さえるに留めた。どうせ店員以外と言葉を交わすこともないのだから。
財布と鍵をポケットに突っ込み、サンダルを足に引っかける。いざ戸を開けようとしたところで、不意に、さっき見た旧友の写真が思い出される。
整った髪。折り目正しい正装。磨かれた靴。
自分とは大違いだと、笑うしかなかった。
「……日陰者、ッスからねぇ」
誰に言うでもなく呟いて、扉を開けた。
――その、十数分後に。時計が正午を指す、少し前に。
私は"あなた"と出会ったんスよ――
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