top of page
 海岸へと降りる道の入り口に自転車を止めると、潮の匂いがした。
 
 自転車のスタンドを降ろして鍵を掛けると、自転車の鍵に付けたネコの顔の形の鈴がりん、と音を立てる。学校の帰り、遠回りをしてここに立ち寄るのがアタシの日課だ。
 
 防砂林の間を縫って進む階段を抜けると、箱庭のようなこぢんまりとした砂浜に出る。ここは地元の人間以外はほとんど知らない海水浴の穴場だけど、9月も半ばに差し掛かりすっかりシーズンを過ぎた今では人っ子一人いなかった。砂浜の端には、知らない人が見たら物置か何かと勘違いしそうな古びた木造の更衣室がある。オフシーズンでも鍵は掛けられていない。「お邪魔しまーす…」といつものように口の中で小さく呟きながら中に入り、アタシはそそくさと運動着に着替える。
 
 着替えを済ませると、鞄を持って砂浜に出た。向かうのはもちろん青い海! …ではなく、波打ち際から離れた岩場のほう。大きめの波が来ても水がかからない、小高くて平らな岩の上に鞄を置いて、中に忍ばせておいた大事な道具を取り出す。みんな持ってるからとお母さんに駄々をこねて買って貰ったスマホに、お小遣いで買ったばかりのポータブルスピーカー。スマホはしっかりとケースにしまって、スピーカーはもちろん防水仕様。どちらも校則違反だ。習慣めいてきた手つきでスマホとスピーカーを接続して、準備は完了。
 
「よし、それじゃ今日はダンスのレッスン、始めますか!」
 
 そう、ここはアタシだけのレッスン場。
 
 夢を叶えるために、アイドルになるために、アタシだけで思う存分レッスンするための秘密の場所だった。
 
 物心が付いた時から、ずっとアイドルに憧れていた。将来自分がアイドルになって歌ったり踊ったりするところを想像するのが何より好きだった。アイドルになりたい、と憧れを語るときの両親や友達の目は年を重ねるごとに呆れの色を含んで行ったけど、アタシの気持ちは小さな頃から少しも変っていなかった。自分がいつかアイドルになるところを夢見てサインの練習をしたり、訛りを直すために東京のラジオを聞いたりしながら中学校を卒業する歳になった今、もうそれだけじゃ足りなかった。
 
 アイドルに「なりたい」じゃなくて「なる」んだと、そのために本気でレッスンを始めると決意したのが夏休みの終わりのこと。もともと部活に所属していなかったアタシは新学期が始まるとともに学校の帰りに回り道をして人目につかないレッスン場を探し始め、何日目かにようやく見つけたのがこの場所だった。
 
 いざレッスンに使ってみると、この場所のレッスン場としての使い心地はばっちりだった。防風林が視界を遮ってくれるので、人目を気にしなくていいのが何よりありがたい。着替えるための場所もある。砂浜のあるところがちょうど入り江になっていて両側を岩場に囲まれているので、ほどよい具合にスピーカーの音が反響してくれるのも嬉しいところだ。粗めの砂地はダンスをするには少し不向きにも思えたが、足を取られて踊れない程ではなかったし、むしろそれくらいの方が『特訓』という雰囲気があっていい、と思う。
 
 そんな秘密のレッスン場で、スピーカーから流れる音楽に合わせて今日も一心にダンスの練習をする。踊るのは、今をときめくトップアイドルの新曲。中でもアタシが踊っているのは、センターの子のパートだ。インターネットの動画で覚えた振り付けを見よう見まねで必死でなぞる。時々スマホで動画を撮っては自分で確認しながら、何度も何度も繰り返す。そうしているうちに、あっという間に太陽は西へと傾いて行った。
 
「ふう……。今日はこんなところかな」
 
 そう呟いて、今日の最後に撮った動画をもう一度見返す。本物に比べると、動きがぎこちないのが丸わかりだ。それでも、一番最初に練習を始めた時よりは少しだけ身体が動きを覚えてきたような感じがする。何事も努力次第。努力し続けていれば、きっとあんな風に踊れる日が来るはずだ。
 
「よし、今日のレッスン、終わりっ!」
 
 勢いよく立ち上がってタオルで汗を拭い、更衣室へ向かう。手早く制服へと着替えを済ませ、さあ自転車のところに戻ろうと更衣室の戸を開くと――
 
「いんやぁ、踊りが上手だねぇ」
「うひゃあっ!?」
 
 不意に至近距離からしわがれた声がして、間の抜けた声を上げてしまう。声のした方へ振り向くと、腰の曲がったおばあちゃんの細くて柔和な二つの目がこちらを見ていた。
 
「えっと……おばあちゃん、見てたの?」
 
 そう聞くと、おばあちゃんは「んだ」と頷く。
 
「とぉっても上手だったよぉ」
「いや、そんなことはないけど……」
 
 上手なわけがないと分かってはいても、面と向かって褒められるのは面映ゆかった。
 
「おばあちゃんは、この辺よく来るの?」
「いんや、普段はこの上の道をときどき歩いとるんだけども」
 
 海岸の入り口の方を指し示す。
 
「今日は見たことねぇ自転車さ止まってるもんだから、何じゃろかと思ってねえ」
「ああ……」
 
 なるほど、アタシの自転車が気になって、普段のお散歩コースから外れてここまで降りてきたのか。これは説明しておいた方が良いかもしれない。
 
「えっとね、アタシ、ここで歌とか踊りの練習をしてたの。だから、その……心配とかはしなくていいよ」
 
 アタシが言うと、おばあちゃんは「そうかい、そうかい」と大きく頷いて言った。
 
「ここは踊りの練習さするには良いとこだねえ。なんせ龍神さまが見てらっしゃるとこだから」
「『りゅうじんさま』?」
 
 おばあちゃんの口から聞き慣れない単語が出て、思わずアタシは聞き返す。
 
「そう、龍神さまだよぉ。聞いたことないかねえ」
 
 首を振る。
 
「あそこに岬が見えるでしょお」
 そう言っておばあちゃんは、入り江を囲む岩場のさらに奥、海に向かって大きくせり出した岬の方を指差す。
 
「あの岬は龍みたいな形をしてるから、この辺では『龍の鼻』言うてねえ。むかぁし昔に龍神さまが岩になった姿、って言われてんだぁ」
「龍の、鼻……」
 
 龍みたいな形、と言われて改めて見てみてもごく普通の岬のようにしか見えなかった。けれど、むむむと唸りながらしばらく見つめていると、だんだんと先のとんがった部分は龍の顔みたいに見えなくもないかな……などと思えてくる。中腹の部分が草に覆われて緑色に見えるのも、緑のウロコに覆われた龍の首の部分に見える……ような……。
 
「だから、ここで練習してれば龍神さまが見てくれてるはずだよぉ」
 
 そう続ける声に思考を遮られ、視線を再びおばあちゃんの方に戻す。
 
「でもおばあちゃん、ここでアタシがうるさくしてたら龍神さまが怒っちゃったりしないかな?」
 
 アタシがそう言うと、おばあちゃんは笑って首を振った。
 
「ここの龍神さまはねえ、まだ子供の龍で、歌や踊りを見るのが大好きだったんだと。だから、遊び相手が来てくれたみたいで喜んでるんじゃないかねぇ」
 
 歌や踊りが好きな、子供の龍。そういう話なら、龍神さまのバチが当たる心配は無さそうだ。安心すると同時に、なんだか頼もしいような気持ちになった。
 
「岬の先っぽに小さい社が立ってるのが見えるでしょお。あれが龍神さまを祀ってるお堂なんだぁ」
「そうだったんだ……」
 
 おばあちゃんの話を聞きながらアタシは、まほうのりゅうがくらしてた、なんて歌を昔学校で習ったのを思い出していた。優しい龍が友達の男の子と仲良く暮らす歌だったはずだ。低く秋の霧、たなびく入り江。今のこの場所にぴったりな歌詞だけど、続きはどうなるんだっけ……?
 
 ネットで歌詞の続きでも調べてみようかとポケットに手を入れてスマホを取り出そうとした拍子に、ポケットから自転車の鍵が滑り落ちた。鍵にくくり付けたネコ形の鈴が、砂の上でりん、と鳴る。気付けば辺りは薄暗くなっていた。
 
「あっ、いけない。アタシ、もうそろそろ帰らなきゃ」
「そうかい。気を付けてお帰り」
 
 慌てて数歩駆け出そうとしたところで、いけないいけない、ともう一度おばあちゃんの方を向き直る。
 
「おばあちゃん、龍神さまのこと色々教えてくれてありがとうございましたっ!」
 
 そう言ってペコリとお辞儀をすると、おばあちゃんはニコニコ笑って手を振ってくれた。
 
 翌日から、レッスンをする前と後に、岬の――龍神さまの方に向いて深々と一礼するのがアタシの日課に加わった。
 
 
 
 秋が過ぎ、冬が来てもアタシはアタシだけのレッスンを続けた。
 
 最初のうちは少しの上達にも手ごたえを感じられていたレッスンだったが、続けるほどに得られる変化は少なくなって行った。そして分かって来たことは、一人きりのレッスンでできることには限界があるという、単純で残酷な現実だった。
 
 そうしてアタシは、決意した。
 
 
 
 
 冷たい風が頬を刺すように吹くある日、アタシは海岸に来ていた。場所はレッスン場にしていたいつもの砂浜ではなく、『龍神さま』の岬の上へと繋がる道の入り口。そしてアタシの服装は学校の制服ではなく厚手のジャケットにマフラー、ハンチング帽。時刻は夕方ではなく早朝だった。いつも乗っていた自転車も、今日は家の車庫に停めたまま。この場所までは、始発のバスに乗って来たのだった。
 
 『龍神さま』の岬の上を歩くのは、今日が初めてだった。岬の上は一段と風が強く、ジャケットの前をぎゅっと掴みながら一歩ずつ歩いていく。しばらく行くと、小さな社が見えてきた。社には観音開きの格子扉が付いていて、覗くと中に石のようなものが祀られているのが見えた。
 
「これが、龍神さま……」
 
 じっと見つめて、ひとつ溜息をつく。ジャケットの砂ぼこりを払い、帽子を脱いで居住まいを整えると、アタシは社に向かってぱんぱんと手を合わせて目を閉じ、言った。
 
「龍神さま、今までレッスンを見守って下さって、ありがとうございました」
 
 一礼。
 
「おかげさまで、怪我もなく無事にレッスンができました」
 
 一旦間をおいて、大きく深呼吸。
 
 そしてたっぷりと呼吸を整えて、絞り出すように言う。
 
「アタシは、これから東京に行きます。立派なアイドルになるまで、青森には帰りません」
 
 それがアタシの出した結論だった。
 
「アタシが居なくなって、龍神さまはちょっと寂しくなっちゃうかもしれないけど……その代わり、これを持っていてください」
 
 そう言ってポケットから取り出したのは、いつも自転車の鍵に付けていたネコの鈴だった。いつもの場所への道すがら、毎日綺麗な音を聞かせてくれたもの。そしてこれからのアタシにはもう、必要の無いもの。
 取り出したそれを、観音扉の取っ手にちょこんと結ぶ。
 
「ここは風が強いから、これで寂しくないと思います。だから、えっと、安心してください」
 
 社に向かってもう一度手を合わせ、ぐっと力を込めた。
 
「アタシは一人でも頑張ります。だから……応援しててくださいっ」
 
 最後にもう一度だけ、一番深いお辞儀をして、岬の入り口の方へと踵を返す。東京行きの新幹線まで、あまりゆっくりしている時間は無い。
 
 去り際、ひときわ強い一陣の風が岬を吹き抜けて、社に結ばれた鈴をりんりんと鳴らした。
bottom of page