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「 」 is not here.
「滑稽ね。わざわざ汗水垂らして自分を凡俗に貶めているなんて」
学校の屋上。
夕陽の朱に照らされながら、ボクはなんともなく口笛を吹いていた。本来ここは立ち入り禁止の場所だけれど、老朽化が進んだドアは肝心の鍵の部分が壊れていて、知ってさえいれば誰でも入ることができる。
見下ろすグラウンドでは、野球部員たちが声を上げながら練習をしている。クラスメイトがいたはずだけれど、みな一様なユニフォームを着ているせいで、残念ながら判別できない。
普段はボクの他に人のいない聖域なのだけれど、迷い込んだのか、はたまた何かに導かれたか、その日は来訪者があった。
「滑稽とは、誰のことだい?」
「わかっているのに訊き返すのは、試されているようで少し癪だわ」
そこでボクは初めて振り返って、来訪者の顔を見た。落ち着いた喋り方をする、端正な顔立ちの少女。見覚えはない。少なくとも、知り合いの類ではない。制服に据え付けられた校章の色から判断して、ひとつ上の学年の人のようだ。
「…ボクは二宮飛鳥。キミは?」
「この屋上で黄昏れている厭世家が気になっただけの、ただの通りすがりよ」
彼女は肩をすくめて、ボクの隣まで寄ってきた。パーソナルスペースを侵さない程度の、つかず離れずの距離に腰を下ろす。
羽虫でも見るかのような冷たい目でちらりと校庭に視線をやって、ふ、と息を吐いた彼女の顔には、隠しようのない優越が浮かんでいた。
一連の所作でなんとなくわかった――どうやら彼女は、ボクの同族らしい。
セカイというやつに絶望し、己の存在理由探しに飽き飽きしてしまった、そんな世捨て人。
その出会いの日以来、ボクたちは気まぐれに逢瀬を重ねた。
多くを語り合うことはなかったけれど、それでも、彼女と時折交わす二言三言の会話は、教師が黒板に書きだすくだらない数式よりよほど、今のボクに必要なものだった。
「前から思ってたけど、あなたのその髪、綺麗ね。わたしもやってみようかしら」
「ああ、これかい。これはね、世界へのささやかな反逆さ」
「体制への?」
「いいや。そうだね、あえて言うなら、運命ってやつへの。――まぁ、もっとも、成功しなかったけどね。やはりというべきか、世界というやつは、随分と広い」
「世界は広い、ね。わたしは、世界は狭いと思うけれど」
「そうかい? ボクは世界ってやつの大きさを感じるよ。ボクらのような一個人に歯車以上の価値を持たせず、ボクらを踏みつぶし、蹂躙し、犯し、使いつくすだけの暴力的な大きさが、世界にはある。あるいはそれは、社会と言い換えてもいいのかもしれないけれど」
「だけど、科学と情報通信によって、世界は狭くなったわ。深い森の奥も、洞窟の底も、世界の裏側、地球の中心、果ては遠い過去でさえ、わたしたち人類にわからないことなんてもうほとんどない。ありふれたスーツを着てオフィス街を闊歩するだけの、わたしたちの将来さえも、わたしたちはすでに知っている」
ボクたちは顔を見合わせて、少し笑った。
「世界というやつは、希望を抱けるだけの未知がないほどに、絶望的に狭く」
「そして、すべての価値を平らにして、代替可能な部品に成り下がらせてしまうほどには、冒涜的に広い」
ボクが成し得る全ては、他の誰かによって成し得る。それならば、この世界にボクがボクとして在る理由はあるのかい?
たかが十余年で悟ったことをいうじゃないかと。
能天気な物語は未来を賛美して、ボクらが失ったものはすべて未来にあるかのように言うけれど。
だけど、残念ながらボクらは知っている。そんなものはまやかしに過ぎないと。
嗚呼、セカイというやつは、どうしてこうもくだらない。
「こうして高いところにいると、タナトスに?まれそうになるわね」
「それでも、生きているんだね」
「ええ。死ぬまでの暇つぶしというやつね。それに、こんなくだらないセカイ、死んでやる価値もない」
「つらいとは思わないのかい?」
ふと口をついて出た疑問に、彼女は目を丸くした。
「何も期待しなければ、何も裏切られることはないもの」
「…そりゃ道理だね」
くつくつと、乾いた笑いが出た――いまのは、失敗だった。
ちらりと横目に彼女を伺うと、しかし彼女は何も頓着した様子はなく、いつものようにスマートフォンの画面に目を落としていた。
ボクは内心でほっと安堵して――そして、そんなボク自身に嫌悪を抱いた。
彼女と出会ってから一月ほどの時が流れ、その間にボクは気づいた。
ボクらはとてもよく似ている。だけれど、きっと、根本の部分が、致命的に違っている。
彼女は、きっとそれを「諦め」とは呼ばないだろう。この世界はそうできていると知ってしまったから順応した、それだけのこと。そこにあるのは純然たる知識の差で、だからこそ彼女は校庭を這う無知な者たちを優越の目で見下ろす。
翻って、ボクのそれは、ただの痩せた矜持に過ぎない。シニカルな笑みを浮かべて、斜に構えて、そんなものだろうと嗤ってやることぐらいしか、もうボクには残っていないのだ。
ボクは所詮、あの葡萄は酸っぱいと言い張るキツネ。なんと滑稽なことか。
くだらない舞台には道化の役者というわけだ。
「――唐突だけれど。わたし、ここに来るのは今日で最後にするわ」
と。
別れを告げる言葉を、何の前触れもなく彼女は唇に乗せた。
「そろそろ、受験勉強しないと」
「……なるほど、そういえば、君は先輩なのだったね」
肩をすくめると、彼女は薄く笑った。
「そう。あなたより一足先に、社会の歯車に近づいてくるわ」
「そうかい。それはなんというか、頑張ってくれ」
くすくすと笑みを漏らした彼女は、これまでより一歩、ボクに近づいた。
「ねぇ。ひとつ、覚えておいてほしいのだけれど」
「うん? なんだい?」
「あなたのそのエクステ――わたし、今でもとっても綺麗だと思ってるの。だから、できれば長く続けてほしいわ」
「――――っ」
その言葉の意味するところに一拍遅れてボクが気づいたときには、彼女はもう踵を返してしまっていた。
一人称を「ボク」に変えても。色とりどりのエクステをつけてみても。セカイというやつはボクという存在のちっぽけさをあざ笑うかのように、何も変わらず廻り続けた。
反逆に失敗したと言いながら、それでもエクステを付け続けるその意味に、彼女は当然気づいていたのだ。
それを綺麗だと言いながら、しかし彼女は一度たりとも髪の毛を染めたりしようとはしなかった。
彼女は結局最後まで、名乗りもせずにただの彼女であり続けた。
きっとこの先、ボクが彼女と出会うことはもう無いだろう。
独りに戻ってしまった屋上で、ボクは空を見上げる。
夕暮れに染まりつつある茜には雲一つなく、高い空には口笛がよく吸い込まれていくようだった。
彼女は去った。
ボクはもう少し、ここで口笛を吹いていよう。
二宮飛鳥はここにいる、と。
滑稽で無様で、だけど綺麗だと言ってもらえた、ささやかな祈りと共に。
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