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「 」 is not here.
あの頃、私のクラスメイトには、幽霊がいた。
小学生の頃……と言っても私はまだ中学に上がったばかりなので、まだほんのちょっと前だけども。
ともかく、私のクラスには幽霊の女の子がいたのだ。
もちろん本当にお化けだったわけじゃないし、透けていたり足がなかったわけでもない、正真正銘の生きた人間。
それを幽霊呼ばわりしていたことに後ろめたさがないのか、と言われれば、ある。たぶん、クラスの中では私が一番に。
けれどもその当時、彼女のことは幽霊と呼ばざるを得なかったのだ。
彼女の黒髪は重く長く、いつも陰鬱な雰囲気を纏っていた。
休み時間に外で遊ぶ姿も見たことがなく、いつも教室の日陰や物陰でじっとしている。
笑った顔も知らなければ、誰かと会話したところも記憶にない。いや、時折"誰か"とぼそぼそと話している姿は、私含め何人かが目撃していた。
そんな子だから、不気味がって誰も近寄らない。
いじめているつもりはなかった。
いじめるどころか、関われば恐ろしい目にあう、なんて言うのがもっぱらの噂だったし、私はそれ以上に、"あの子"に対する関心がなかった。
学校で、誰とも話さず、誰とも関わらず、何をするわけでもなく、ただそこにいる。
名前を呼ぶことすら忌避されて、ただ"あの子"とだけ呼ばれるクラスメイトの女の子。
"あの子"は幽霊。"あの子"は誰でもない。何者でもない。確かにいるけど、いないのと同じ。
それが私たちのクラスでの、"あの子"の扱いだった。
ただし。
私にとって、"あの子"は何者でもないわけではなかった。何者かではあった。何者だったのかは、その時はわからなかった。
なぜならそれは、私が"あの子"がいなくなってしまう直前に言葉を交わした、数少ない人間の一人だったからだ。
"あの子"とは同級生だったので、一年生の頃から同じ学年にはいたはずなのだけど、正直その頃に遭遇した記憶は全くない。クラスが違ったからだ。
当然ながら"あの子"は、よそのクラスで積極的に友達を作るような子ではなく、私も同じクラスの友達と遊ぶので精いっぱいだった。
誰かしらから奇妙な噂話を聞くこともなく、この頃は本当に出会う機会がなかったのだ。
最初に"あの子"の存在を認識したのは、確か三年生の頃。
クラスの怪談話好きの女子が、学校の七不思議の話と合わせて、私たちの学年にいる幽霊の噂話を、神妙な顔つきと精いっぱいのおどろおどろしい声音で話し始めたのだ。
それが"あの子"についての噂だった。
なんでも、"あの子"の上履きを隠していたずらをした同級生がいたのだそうだ。
するとどうしたことか、"あの子"は自分の上履きがないことに気付くと、すぐに犯人の子に対し、恐ろしい呪いの言葉を投げかけた。
いたずらをした子はしらを切ったものの、なんとそのあとすぐに大けがを負ってしまったのだという。
元々陰気で友達もいなかった"あの子"はそれ以来、関わると不幸な目にあう幽霊として扱われているのだとか。
今であれば、趣味の悪い与太話だと一笑に伏すところだが、当時は面白半分に怖がって聞いていた。
そんな噂がまかり通っていたものだから、誰もがみんな名前さえ呼ばず、"あの子"といえば"あの子"のことを指すようになっていたのだ。私もそうだった。
やがて四年生になって。
私は"あの子"とクラスメイトになった。
話に聞いていた通り、"あの子"の纏う雰囲気は暗く、いかにもホラー映画に出てきそうな幽霊じみた容貌をしていた。
ずっしりと重たい黒髪は、小柄な"あの子"の印象を半分以上覆い隠している。前髪も長く、そしていつもうつむきがちで、きちんと顔を見た覚えはない。
立ち居振る舞いはいよいよ聞いていた通りで、教室にいる間、彼女はひたすらぼんやりと机に腰かけているばかりだった。
積極的に話しかけに行く人もなく、唯一声を聞くのは出席確認でのか細い返事だけ。ただそれで、ああ今日もいるんだな、とみんななんとなく思う。
そうしていると、はじめは噂話の幽霊だ、なんて思っていた私も、徐々に"あの子"に対する興味を失っていく。
この頃には、"あの子"をことさらに幽霊だと囃し立てる噂話も、ぱったりとなくなっていた。学校の七不思議の話と一緒に、"あの子"という幽霊の噂も既に飽きられて。
意地悪な子たちにひそひそと陰口を囁くこともされない。それは空気に悪口を言うようなものだったからだ。
そうやって、日ごと"あの子"は、本当に幽霊になっていったのだ。
毎日毎日、ただ学校に来て、何かするわけでもなく、何かを残すわけでもなく、"あの子"はずっと、何を思っていたのだろう。
"あの子"と本当の意味で出会うまで、私はそんなことを気にかけもしなかった。
そう、毎日同じ教室に通っているにもかかわらず、その存在を忘れかけていたころ。
ついに私は"あの子"と出会った。
今となってはそれがいつ頃の出来事だったのか、あまり正確には思い出すことができない。
その日はいつもとそう変わらない、あっという間に過ぎていったいつかの一コマで、私は夕暮れの学校で一人、そろそろと家に帰ろうとしているところだった。
普段であれば、そんなに遅くまで学校に残っているなんてそうあることではなかったし、そうでなくても大抵友達の誰かが一緒にいた。
ただその日に限って、私は夕暮どきの校舎に一人きりになってしまったのだった。
係の仕事だったか、日直の仕事だったか、理由は忘れてしまったが、その情景はまだ記憶に鮮やかだ。
窓から差し込む真っ赤な夕焼けが、私の影を長く長く引き伸ばす。強い赤が廊下のあちこちの暗い影を浮き彫りにしている。
徐々に薄暗くなる世界の中、強いコントラストで描かれた窓枠や扉の影が、まるで私を校舎に閉じ込めんとする鉄格子のように見えたことをよく覚えている。
急いで帰ろう、何で誰も残っててくれないんだろう、もっと早く帰れると思ったのに。
お気に入りだったランドセルさえ枷のように感じ、ぶつくさと愚痴をこぼしながら不安を紛らわせていた。
まるで、世界にただ一人、私だけが取り残されてしまったような不安を。
だがどうやら一人ではなかったらしい、そう気づいて安堵の息をもらしたのは、私が普段通っている教室の前を通りがかった時だった。
「………………。…………」
扉越しにぼそぼそと、誰かの話し声が聞こえてきたのだ。
誰の声かもわからないが、それは確かに誰かに話しかけている声で、クラスメイトの誰かがおしゃべりに夢中になっているんだろうか、そう思っていた。
「誰かおるん?」
そして無造作に開けた引き戸の先に。
"あの子"がいた。
薄暗がりの教室の端に、黒い髪に赤焼けを映した"あの子"は、誰もいない虚空に向かって、か細い声で何かを囁いているようだった。
最初に悲鳴を上げなかったのは、その光景に凍り付いていたからで。
次の瞬間にそうしなかったのは、それよりも早く、"あの子"が私に気づいたからだった。
もしこの時、夕日が私の後ろから差していなかったら。
私に気づいた瞬間、肩を跳ね上げ、私よりも怯えた目をした"あの子"の顔が見えなかったら、多分、その場から一目散に逃げだしていたと思う。
「………………」
「………………」
逃げ出さなかったのはいいが、お互いに次の行動に移るきっかけを逃してしまい、しばらく黙って見つめあう奇妙な数秒が流れていた。
私はといえば、びくびくと怯えた"あの子"の様子にただただ困惑し、驚きや恐怖はどこかに飛んで行っていた。
向こうからはどう見えていたのだろう?
もしかしたら逆光で、結構不気味な雰囲気を出していたのかもしれない。
でも今思うと、"あの子"は最初からきっと、ただ極端に人見知りだっただけなんだろう。
そんなことにも気付けなかったくらい、あの頃の私は、あんまりにも無関心に"あの子"のことを遠ざけていたのだ。
さておき、奇妙な沈黙のあと、先に口を開いたのは"あの子"の方だった。
「あ、あの……なん、ですか……?」
囁くような上ずった声が耳に届き、こんな声だっけ、と場違いな感想を抱いていた。
「えっと、そのな……」
誰と話してたのか、なんて聞こうかとも思ったけれど、結局口から出たのは別のことだった。
「しゅ、宿題! 宿題やってたん?」
「え、あ、は、はい……そう、だよ……?」
見ると"あの子"の机の上にはノートと教科書が広げられていて、それはどうやら今日の授業で出された算数の宿題のようだった。
「なんで、うちでやらんの?」
「あの……家、帰ると……」
「うん?」
「つい、映画みちゃう、から……学校で終わらせてから、帰ろうって……」
「………………」
「………………?」
だいぶ間抜けな顔をしていた、と思う。
でもそのくらい、拍子抜けだったというか、肩透かしを食らったというか、そんな具合だったのだ。
"あの子"はクラスでも、いや学校でも飛びぬけて異質な存在で、普段は気にも留めないが、時折視界に入るとひどく不気味な存在。そんな風に思っていたのだ。
それが、夕暮れの教室で一人、何をしているのかと思ったら。
家にいると誘惑に負けるからここで宿題をやっている、なんて。
近くに行って覗き込んでみると、どうやら進み具合は芳しくないようだった。
「あんまり進んどらんね」
「うん……よく、わからないところがあって……」
「見して、教えたるよ」
「え、い、いい、の……?」
「ええからええから」
同い年だけれど、私よりも小柄な"あの子"が、なんとなく妹に重なって見えた。
理由はただそれだけ。
もうこの時、私にとって"あの子"は、不気味な幽霊の女の子ではなく、今まで話したことのないクラスメイトになっていた。
それから、よく知らないクラスメイトの宿題を見ながら、私は彼女とぽつぽつと彼女と言葉を交わした。
得意な教科、苦手な教科のこと。
好きな食べ物のこと。
何の映画を見るのか聞いたときは、彼女は思いもよらないほど饒舌に、大好きなホラー映画の話をしてくれた。
彼女は、私が学年で一番怪談話に詳しいと思っていた友達よりも、もっとずっと怖い話が得意で、黒髪の奥の目をキラキラさせながらいろんな話を教えてくれた。
なにより彼女は、驚くほど話し上手で、あまり怖い話が得意じゃない私も、ついつい聞き入ってしまっていた。
同時に、心の片隅で、もしかしてだからこの子は幽霊扱いされていたのだろうか、とも思っていた。
この子の噂話を最初に教えてきた怪談話好きの友達は、なんでも自分が中心にならないと気が済まない、そういうところのある子だった。
いま目の前で口舌滑らかに語られる学校の七不思議にまつわる話は、以前にその友達から聞いた時よりも、何倍もおどろおどろしく、そして面白かったのだから。
それから、女の子っぽい話もしたりした。
「わたしはお化粧とか興味あるけど、ママがまだ早い言うんよ。そっちは興味ないん?」
「ある、けど……おシャレとか、でも、あんまり目立たない方がいいかな、って……」
彼女がランドセルから取り出した雑誌には、ガイコツやコウモリやクモをモチーフにしたアクセサリーがたくさん載っていた。
正直私にはわからない世界だったが、彼女の目はやっぱりキラキラ輝いていて、なんだがすごくかわいかった。
「なんかトゲトゲしとるー! でも、こういうのつけるにはあんたちょっと……じみやん?」
「そう、かな……お化けみたい、でしょ」
「なんでちょっと嬉しそうなん……じみ! くらい!!」
「あぅ……」
「もっと軽くしたほうがええよ絶対! いっそ色も変えてみるとか」
「怒られそう……」
本当に他愛もない話ばかりしていた。
普通のクラスメイト同士がするような、中身のないなんでもないおしゃべり。
今までどうしてそうしなかったのかが不思議なくらい、私は彼女と話すことに夢中になっていた。
彼女の声はか細いが、どこか甘く、耳に心地よかったからかもしれない。
好きなものについて目を輝かせて話す姿が、驚くほどかわいかったからかもしれない。
彼女はその時から、幽霊の"あの子"でも、空気でもなく、ただのまだよく知らないクラスメイトの女の子になったのだ。
結局、その日はそれ以上何をするでもなく、気付くともう遅い時間だったので、二人で慌てて家路についたのだけれど。
それから。
何かが劇的に変わったということはなかった。
相変わらず彼女はクラスでは"あの子"だったし、私もそこに積極的に話しかけに行くようなこともしなかった。
言い訳をさせてもらうと、例の怪談好きの子が中心となっていたグループに属していた私は、なんとなくそうしにくい空気を感じていたからだ。
時折、彼女の方をちらちらと窺っては、あの夕焼けの中でのひと時が夢だったのではないだろうか、などと考えるばかり。
もう一度、機会を見つけてお話しできたら、もしかしたら友達になれるかもしれない。そんなことを考えていたのだ。
そして結局、それを確かめる機会は、ついに訪れなかった。
ほどなくして、彼女は私たちの前から姿を消してしまったのだから。
親の仕事の都合で、地元の兵庫から東京の学校に転校することになった。
朝のホームルームでそう聞かされた時、彼女は既にこの学校のどこにもいなかった。
なぜもっと早く教えてくれなかったのか。なんで誰も知らなかったのか。なんで、私に言ってくれなかったのか。
そんな疑問が胸の中で渦巻く一方、クラスの反応はひどく淡泊だった。
ふーん、とか、へぇー、とか、興味の薄いそんな反応が、クラスの中をそよ風のように通り抜けて、それで終わりだった。
だから私も納得せざるを得なかった。
教えなかったのは、教える相手がいなかったからだ、と。そしてそれは、私を含めてそうだったのだと、気づかざるを得なかった。
あの夕焼けの邂逅で、私は彼女の理解者になった気でいたのだ。
他の子のしらない、彼女のことを知っている気になっていただけなのだ。
彼女にとって私は、何者でもない、ただのいちクラスメイトに過ぎなかったというのに。
それ以来、彼女とは会っていない。
だから、かつて幽霊の"あの子"だった、そしてそうでなくなりかけた彼女と私の物語は、これでおしまいだ。
何のヤマもオチもない話で、我ながら呆れてしまうが、本当にこれで全部なのだからしょうがない。
それに正直、もう半分忘れかけていた出来事だ。あの日の出来事についても、だいぶ美化している気がしないでもない。
そんな話をなぜ中学生になった今更になって思い出しているのかって?
決まっている。
私は数年ぶりに、彼女のことを見かけたのだ。
たまたまつけたテレビの歌番組。
幾人もの個性的なアイドルたち。
彼女は、その中の一人だった。
だいぶ様子は違っているが、間違いなかった。
長かった黒髪は、短く軽やかな金髪に変わっていたが、衣装にあしらわれたゴシックなアクセサリーと、そしてなにより、あのキラキラした瞳と囁くような甘い歌声ですぐに気づいた。
私の知っている、私の知らない彼女が、そこにいた。
あの頃、私のクラスメイトには幽霊がいた。
誰にとっても何者でもない"あの子"で、私にとって、もしかしたら何者かになっていたかもしれなかった彼女は。
私たちの誰も知らないところで、今をときめく皆のアイドル、白坂小梅になっていたのだった。
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