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「 」 is not here.
島村卯月の取材に行くぞと言われ、僕は呆気に取られた。もと芸能記者だった先輩は、ネタの鮮度が落ちるのを嫌う。「ピンと来た瞬間に走り出せ。幸運を逃すぞ」が彼の口癖だ。実際、先輩の手がけるドキュメンタリー番組は評判がいい。俳優、作家に、スポーツ選手。成功者の意外な過去を発掘しては、視聴者を遠い昔へ誘う。色褪せた記憶、埃を被った思い出を、先輩は丁寧に磨く。その歴史は、夜空に咲いては消える花火のように打ち上がり、観客に不思議な余韻を与えた。僕もその花火に、魅了されたひとりだった。
「昼飯のとき話していたのに、もうですか。どこまで行くんです?」
「彼女が在籍していた養成所だ。ダメ元で電話したら、お目当ての女性が出た。幸先がいい」
僕と一回り以上も年が離れた先輩は、住所を書いたメモを寄越し、上機嫌で支度を始める。島村卯月。栄誉ある五代目シンデレラガールに選ばれた十七歳。花が咲いたような笑顔とダブルピースで、ファンの胸にあたたかい春風を吹かせるアイドル。僕が知る彼女と、世間の認識はそう遠くない。だがそんな彼女も、デビュー当初は地味で平凡、没個性だったという。
「ステージ衣装は一着きり。ソロ曲を出すまで半年以上も埋没。今の彼女からは想像もつかんだろう?」
「うーん、確かに。別人みたいですね」
「俺が取材したいのは、デビューする前の島村卯月を見てきた人なんだよ」
夕方スタジオを出て、着いたころには夜の九時を回っていた。業務時間は過ぎていたが、まだレッスンしている生徒の声が聴こえる。先輩と僕は隣の事務室へと招かれた。島村さんがテレビに出るようになって、随分繁盛したらしい。案内してくれたトレーナーさん自身、今ではここの責任者だそうだ。
「卯月さんの取材とのことですが、あまり大層な話はできそうになくて」
「いやいや、どんな些細な出来事でも構わないのですよ」
セッティングをしながら先輩が言う。僕もレコーダーとカメラの電源を入れた。三人分のコーヒーを用意した女性は、先輩と対面する形で椅子に座る。見た目で女性の年齢を当てるのは難しいけれど、しゃんと伸びた背筋や綺麗な歩き方は現役のモデルみたいだ。長年生徒を指導しているだけのことはある。
「あなただけが目撃した島村さんの話を、聞かせて欲しいのです」
先輩が告げる。女性は少し考えてから、静かに話し出した。
「初めて会ったとき、彼女は中学生でした。当時の私は勤務五年目……養成所に入ってから数えれば、もう、十年が過ぎていました。これでも昔は、アイドルを目指していたんですよ。高校卒業までに叶わなければ諦めると、親を必死に説得して。結果は、まあ、お察しの通りです。こんな風に取材を受ける日がくるなんて、思いもよりませんでしたが」
ステージの上で歌うことも。素敵な衣装で踊ることも。全く夢を掴めなかった両手が選んだのは、かつての夢の背中を押す仕事だった。トレーナーになって得られたものも沢山あるんですよと、女性は柔らかい表情で語る。
「あの子が、私に、別の夢をくれたんです」
先輩の目が鋭くなった。一言たりとも聞き逃すものかと耳をすませて。僕もそれに倣う。壁一枚を挟んだレッスン室の靴音が、一層大きく聞こえた。
「子供のころからアイドルになりたかったんですと語る彼女の目は、いつだってキラキラしていました。アイドルになりたい一心で頭がいっぱいで、夢に対して実直な女の子。思わず私も苦い過去を忘れ、目を輝かせてしまったほどです」
――いつかここから、トップアイドルが生まれたらいいなあって思っているの。
前屈する背中を押しながら、女性が本音を呟いたとき。少女は満面の笑みを浮かべて、頑張りますと宣言した。大きなステージで歌える日が来たら、見にきてくださいねと約束をして。
「彼女は私の期待に応えてくれました。応えようとしすぎた、といっても良いかもしれません」
ふと、女性の顔に陰りの色が見えた気がした。何かあったんですかと訊ねたい気持ちを、僕はぐっと堪える。用意されたカップから、少しずつ湯気が失われていった。
「念願叶ってアイドルになれた彼女が戻ってきたのは、卒業して何ヶ月も経ったころでした。あんなに希望に満ちていたのに、すっかり元気を失くしていたんです」
以前のようにレッスンをさせてくれませんか。その申し出を断る理由は、女性には無かった。何があったか語ろうとはしなかったが、生徒のころには無かった焦りや無力感を抱えていることは、声や眼差しの弱さからも察せたという。
「私の仕事は、アイドルになりたい生徒をスタート地点まで送り出すことです。そこから先の道を、共に並んで歩くことはできません。もともと彼女は、夢に一切迷いをもたない子でしたから。自分だけでは越えられない壁を前にして、心が折れてしまったのかもしれません」
周囲と自分。理想と現実。何に手が届かず落ち込んだのか、正確なところは女性にもわからない。少女は体調を崩し、所属事務所にも通えなくなった。自宅と養成所を往復しては、何時間も鏡の前に立つ日が続き――。
「彼女は再び表舞台に上がることなく、ひっそりアイドルを辞めました」
「あれっ。辞めちゃったんですか?」
口を挟んだ僕を、先輩が無言で睨む。横入りしないこと。話は最後まで聞くこと。それが取材での鉄則だった。僕はすぐに謝った。しかし不意を突かれたのは先輩も同じらしく、なかなか腑に落ちない顔をしている。
「申し訳ない。続けてください。ええと……島村さんの話を」
女性は頷き、話の続きに戻った。僕もそちらに集中する。彼女の行方を知りたかった。
少女の引退を取り上げたニュースは皆無だったらしい。鳴かず飛ばずで消えるアイドルなんて、星の数ほどいる。それでも女性は、夢と運と何かに巡り逢えなかった少女のことを気にかけていた。
大半がレッスン生のまま養成所を去る一方、一握りの生徒はあこがれの場所へと羽ばたいていった。次第に仕事が評価され、東京に新しい養成所を立ちあげる相談をされた女性は、地元でくすぶっていた少女に、ひとつの提案をする。
「それがこの養成所です。今年で開設八年目になります。当時は人出が足りず、咄嗟に浮かんだのがあの子でした。私の仕事を見てきたのもありますし、何か新しいことをさせてあげたかったんです。地元には過去を知る人も多く、何をするにも不便そうでしたから」
新しい養成所で少女は雑用を任された。アイドルを目指す生徒を、どこか冷めた目で見ながら、レッスン室を掃除する毎日。彼女は黙々と仕事を続けた。知名度の低さが逆に幸いし、苦い過去に触れられることもない。季節は巡る。花が咲かなかった少女の元にも、幾度目かの春が訪れる。五年が過ぎたころ、彼女は生徒を指導するトレーナーになっていた。
生徒の誰にも語らぬ過去と、熱意を忘れた両目を抱えて。
「今から三年前、私はふたつの養成所を掛け持ちしていました。どちらにも愛着がありましたが、前の校舎はビルの建て直しを機に閉校が決まっていたんです。最後の日、私はかつての職場を見に行きました」
誰もいなくなった養成所で、レッスン室は静かに女性を待っていた。女性が長年苦楽を共にした場所だ。キラキラしたアイドルになりたいと夢を語る少女が、どこかにいそうな気もしたが、それは淡い願望に過ぎなかった。時は過ぎ、あれほど目を輝かせていた女の子は、もうどこにもいない。
流れた月日を寂しく思いつつ、かつての職場を去るころには、すっかり日が暮れていた。電車に乗り養成所に戻ると、こんなに遅い時間だというのに、レッスン室に明かりがついている。戻れるのは遅くなるから、戸締りを頼んで出てきたはずなのに。誰かが消し忘れたのか、それとも泥棒に入られたのか。思考を巡らせながら扉に近づいた女性は、そこで、懐かしい光景を目撃した。
「遠い昔の私とあの子に、良く似た子たちがいたんです」
残っていたのは女性の教え子と――入学三ヶ月にも満たない、歌もダンスも未熟な中学生。
「あんなに手を叩き、伴奏を繰り返して。私はこんなに熱い指導をしていたのかと、恥ずかしくなったほどです。でも、目の色が変わるのも解る気がしました。私自身ひとつだけ、過去に心当たりがあったものですから」
アイドルになりたい一心で頭がいっぱいで、夢に対して実直な女の子。
いつかほんとうにキラキラしたアイドルになる、何年も何ヶ月も昔の、
「……島村さんだ」
僕の呟きを、先輩は窘めなかった。女性は更に意外な言葉を続ける。
「電話でインタビューのお話を頂いたとき、どうすべきか悩んでいたんです。あの子が卯月さんと会う約束をしていたのも、ちょうど今夜だったものですから」
「えっ!」
これには先輩も僕も驚いた。では、先程から隣の部屋にいるのは。まさか。
「私が場をつなぐ間に、積もる話をすると思ったんですよ。なのにあの子たちったら、昔と全然変わらないんだから」
女性は困ったように笑う。久しぶりの再会を、取材でつぶされたくはなかったのだろう。でも、先輩が島村さんの話を聞きたがっていたから、直接会わせてあげたいとも思ったのだろう。こんな偶然そうあるもんじゃない。先輩の言う通りだ。ピンと来た瞬間に走り出さないと、幸運を逃してしまう。
「ふたりを呼んできましょうね」
席を立とうとする女性に、もう少しだけ待ちませんかと先輩が言った。声をひそめ、何かに耳をすましながら。
ピアノの音が聴こえる。女性にとっては聴き慣れた、僕らにとっては初めて耳にするその伴奏を、聴き覚えのある声が追いかけていく。世間にあたたかく吹き抜ける、春風のような歌声。キラキラと弾む音符の隣に、女の子の歌がぴたりと並ぶ。足りなかった何かを補うように。欠けていたピースがはまるように。共に並んで歩いていく。
僕はレコーダーが動いているのを確認して目を閉じ、これから夜空に打ち上がる花火のことを思った。
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