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「 」 is not here.
卒業式が、どんどん素っ気なくなっていく。
小学校の時はみんなで合唱や、卒業証書の受け取り方を一人ずつ練習したりして、まるで運動会か何かのように熱の籠ったものだった。
中学校の卒業式、卒業証書を各クラスの代表一名がまとめて受け取った。僕はパイプ椅子に座ったまま友人が折り目正しく卒業証書の束を受け取るのを見ていた。でも僕が卒業した中学校は合唱に結構力を入れていたから、合唱の練習だけは真面目にやった。
そして今日、高校の卒業式。たまの出席日に練習のようなものこそあったがそれは式の大まかな順序の確認だけ。合唱も無くなりいよいよ素っ気なさもここに極まってきた感がある。
しかし、卒業式が素っ気ないことなどはそもそもどうでもいい。
人は出会いと別れを繰り返す。そんなことはこの時期にリリースされる歌で毎年毎年うんざりするほど聞くありきたりなフレーズで。
今日、僕は卒業と共にこの学校で知り合った多くの人と離れ離れになる。
その中には、一年間同じ図書委員会で、僕が秘かに片思いをしていた鷺沢さんも含まれていた。
僕にとって重要なのは、そこだけだった。
素っ気ない卒業式も、満開の桜も、僕にとってはどうでもいいことだった。
一年生の時の春。高校に入学して最初の昼休みに、昼食を済ませてから僕は一人で図書室に行った。図書室にどんな本があるか知りたかったからだ。
図書室に入ると、とても静かだった。司書の先生もどこかに行っていて、僕はのんびり端から端まで本棚を見て回ることにした。
そうして、窓際の端の席に一人の女の子が座っているのを見つけた。
汚れ一つない少し大き目な制服を着ているその女の子は、一人で座って本を読んでいた。長く伸びた前髪が目元を覆っていて、黙々と本を読むその姿と相まってとても暗い雰囲気を纏っているように見えた。
けれど、少ししてその印象はがらりと変わった。
「……ふふ」
女の子が、本を読みながら小さく笑ったり、時々驚いたように目を見開いたりした。本を読むのが、楽しくて仕方がないという様子だった。
その時、ふわりと外から風が吹いて、カーテンと彼女の長い前髪を躍らせた。
活字を追う彼女の瞳は、とても綺麗な蒼色をしていた。
それを見たら、女の子の暗い雰囲気が一瞬で華やいで見えたような気がした。
面白そうな本があったら借りていこうと思ったのに、気付けば僕は静かに扉を開けて図書室を出ていた。
彼女の読書の邪魔をしたくなかったからだ。
少ししてその女の子が同じ一年生で、鷺沢文香という名前だということがわかった。
授業の合間の中休み、彼女のクラスの前を通る時に教室を覗き見た時、彼女は窓際の端の席に座ってやっぱり本を読んでいた。ただ静かに、彼女は無表情で活字を追いかけていた。
その時、初めて図書室で見た鷺沢さんの姿を思い出した。誰にも見せない彼女の表情を、僕だけが盗み見てしまったことに気が付いた。
ふとした時に見つけた彼女をさり気なく目で追いかけるようになったのは、その時からだった。
それが淡い恋心へと変わるのに、そう時間はかからなかった。
卒業式が特に大きな問題もなく終わり、号令が済み、クラスのみんなが教室を出て行く。部活をやっていた人は後輩と話したり、特に用のない人は足早に学校を出て行ったりする。
僕は図書室に行って三年間図書委員としてお世話になった司書の先生に軽く挨拶をして、教室に戻ってきた。クラスのみんなが寄せ書きをした黒板と静寂を取り残して、教室には誰もいなくなっていた。
鷺沢さんは、帰ってしまっただろうか。機会があれば一言でもいいから話がしたかったけれど、もう無理だろう。
三年生になって、僕と鷺沢さんは同じクラスになった。一年生の時も二年生の時も、お互いずっと図書委員会だったから、鷺沢さんも僕の名前は知っていたとは思うけど、僕達の距離が縮まることはついに今日を迎えるまでなかった。
当然だった。端から見れば僕だって鷺沢さんと同じクラスの地味な男子の一人で、運動ができるわけでも顔がいいわけでもない。同じクラスの図書委員になったところで関係を進展させることなどできるはずがなかった。
同じクラスになって物理的に距離が近くなった分、一歩を踏み出す勇気が出せない自分が情けなくなるだけだった。
やるせない気持ちのままため息をついて教室を出ようとしたとき、廊下から足音が聞こえてきた。
その足音は僕がいる教室へと近づいてきて、やがて教室の中へ入ってきた。
心臓が、止まるかと思った。
「あ…………ここに、いたのですね」
長い前髪、着崩すことなく綺麗に着ている制服姿。
教室にやってきたのは、紛れもなく鷺沢さんだった。
「……鷺沢さん?」
「…………教室を出て行ったのが見えたので、もしかしたら、帰ってしまわれたのかと思っていたのですが……入れ違いに、なってしまっていたようですね……」
鷺沢さんが僕の方へと歩いてくる。顔が赤くなっていくのが、頬の熱さで伝わってくる。
「な……何か、用事?」
口の中が渇いて、頭が上手く回らない。気の利いた言葉もちっとも思い付かない。
「……いえ、特別な用事では、ないのですが」
鷺沢さんは、持っていたバッグから一冊の文庫本を取り出した。
「もし、よろしければ…………これを、受け取っていただけませんか……?」
彼女が文庫本の最初のページから取り出して、僕に差し出したもの。
「え?」
それは、紙でできた本の栞だった。
「……その、趣味で栞を作っていて…………今まで、学校でお世話になった先生や、クラスの方に、何か、できたらと…………」
「……それで、栞を?」
「…………はい」
消え入りそうな小さな声で鷺沢さんは言った。元の肌がとても白いからか、赤くなった頬が余計に強調されている。
照れているのか、緊張しているのか、それとも両方なのかはわからないけれど、顔を赤らめながら僕を見る鷺沢さんは、とても可愛らしかった。
どぎまぎして、顔が真っ赤になるのを自覚しながらも、僕は差し出された栞を受け取った。
「あ、ありがとう……えっと」
何か言わなきゃ。そう思えば思うほど、頭の中から言葉が消えていく。
「あ、あの、鷺沢さんっ」
「……はい」
前髪に隠れているけれど、僕を真っ直ぐ見ている鷺沢さんの目は宝石みたいに透き通っていて、凄く綺麗だ。
でも、僕にはそんな大それたことを言う勇気なんて到底持ち合わせていなくて。
「その……げ、元気でね。栞、大切に使うから……」
さび付いたように動かない頭を必死に動かして、ようやく絞り出せたのは、あまりにもありふれた言葉だけだった。
情けなくて、悔しくて、その場から消え去ってしまいたかった。
「……はい」
それでも、鷺沢さんはそんな僕を見てにこりと笑ってくれた。
「あ……」
あの時、本を読んでいた時と同じ、華やかな笑顔だった。
もう会えないかもしれないのに、どうして、どうして今そんな顔を見せてくれるんだろう。
そんなのって、ずるいじゃないか。
「……そちらも、お元気で……ありがとうございました」
その笑顔を残して、鷺沢さんは僕に頭を下げて歩いていく。
鷺沢さんが教室からいなくなるまで、僕は何も言えずにその場に立ち尽くすことしかできなかった。
教室に取り残された僕に残ったのは、鷺沢さんがくれた栞と、今更のように湧き上がる悔しさだった。
鷺沢さんがあんな素敵に笑えることを、みんな知らないんだ。何も知らないで、教室の隅で本を読んでいる彼女を見て、みんな「地味」とか「暗い」とか、そんな勝手なことを言っているんだ。
あるいは、鷺沢さんにとってはその方がよかったのかもしれない。読書の邪魔されずに済むし、読書に集中していればみんなの小さな声なんて彼女の耳には届かない。そして僕も、そんな「みんな」の内の一人なんだろう。
悔しかった。告白もできず、ただ鷺沢さんを目で追いかけることしかできなかった自分が。鷺沢さんの綺麗な目も、華やかな笑顔も知らないまま学校を卒業したみんなが、そのまま「本好きで地味な女の子」として鷺沢さんのことを忘れていってしまうのが。
それを知っているのが僕だけで、それが少しだけ嬉しい僕が、情けなくて仕方なかった。
教室を出て、僕は窓から校門の方を見る。
卒業生や在校生を避けて、学校を出て行こうとする鷺沢さんの後ろ姿が見えた。
いつか、彼女に気付かせてほしいと思った。
僕のように鷺沢さんの魅力に気付ける、僕みたいな弱虫じゃない誰かが。
君はとっても素敵な女の子なんだって。もっと、もっと、たくさんの人を惹き付ける力を持ってるんだって。
たとえ彼女がそれを望んでいなくても、彼女にそれを望むように仕向けてしまうような。
そんな、魔法使いのような誰かが彼女の前に現れることを願いながら、僕は鷺沢さんがいなくなった校門をいつまでも見つめ続けていた。
おわり
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