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「 」 is not here.
様々な面倒くさい手続きを終えてロビーへ這い出ると、雑多な人の群れと匂いに混じって懐かしい香りが鼻孔をくすぐった。
日本は醤油の匂いが充満しているって本当だったんだ、と一ノ瀬志希はロビーの中央近くに立ち尽くして、そういえば向こうで数少ない友人がそんなことを漏らしていたのをぼんやりと思い出す。
確かにお土産で醤油は売っているし、お煎餅だとか弁当だとかその他のお土産など日本ではありとあらゆる物に醤油は使われている。自分の鼻が他の人とはちょっと違うのを志希は理解しているが、そうでない所謂普通の嗅覚を持つ人でも感じられるぐらいに充満しているのが不思議だった。
「醤油の蔵元とか行ったら大変なことになりそ」
フンス、と鼻から一つ息を吐き出してから周囲を改めて見渡す。
皆何に追われているんだろう、と不思議になる。携帯を片手に早足でキャリーケースを引きずるサラリーマンに、高揚しまくっている女子大生と思わしき集団、不安げに腕時計を何度も確認しながら誰かを待つ人妻っぽい女性に、不満を漏らす子供を宥めすかしながら急ぐ家族連れ。
数年ぶりの日本は、何も変わってはいなかった。
日本人は元より、元々はそうでなかった外国人もこの国では足早で窮屈になる。ありがとうの前にすいませんと言い、自分は決して悪くないのにさも自分が他人に迷惑をかけながら生活しているように振る舞う。
不思議だな、と思う。
勿論生きている以上、他人に迷惑をかけることもあるだろう。ただ恐らく、そういう場面は長い人生の中では少ないはずだ。前を見ながら歩いている人が、スマホの画面を見ながら歩いている人とぶつかった場合、謝るのはよそ見をしていたほうだけでいい。にも関わらず、日本で暮らしている人は互いに謝罪し合いあまつさえ、よそ見をしていなかった人のほうが申し訳なさそうな顔を作るのだ。
もっと気楽に、素直に生きればいいのに。やりたいことだけをやって、やりたくないことはやらなくていい。やらなければいけないことは、まぁそれなりに。
でもあたしには関係ないし別にいいか、とドライに思考を切り捨てて、ハンドバッグ一つという帰国の身としては少なすぎる荷物をふらふらと揺らしながら、往来のど真ん中を歩いて行く。
ロビーから氷のように冷たい自動ドアをくぐり抜けると、外は冷凍庫のようだった。雪こそ降ってはいないものの、夕暮れ時の空はグレーの分厚い雲に覆われている。
「雨降りそ」
クンクンと鼻をひくつかせると、ペトリコールの匂いがした。植物由来のこの成分は、湿度が高くなると土壌の鉄分と反応して香り始める。俗に言う、雨の匂いというやつだ。
感じない人もいるらしいけれど、その人は凄く損をしているなぁ、と志希は思う。この清潔感というか、さわやかさと言うか、何とも形容し難い匂いが志希は好きだった。ペトリコールの言葉の由来は、ギリシャ語で石のエッセンス。単純にその語感だけでも素晴らしいと思う。
それを全身で感じながら、志希はバスターミナルから東京方面へ向かうバスを適当に選び、チケットを購入して飛び乗る。世界が雨の匂いから、排ガスとバスの車内特有の匂いに変わる。これはあまり好きではないが、別に嫌いでもない。ただあの清潔感溢れる香りが上塗りされてしまったのが少し残念だった。
一瞬バッグから香水を取り出そうと思ったが、さすがに迷惑になりそうな気がしてやめておいた。代わりに窓枠に肘をついて、手首の内側を鼻に押し付ける。自画自賛だが、相変わらず良い香りだった。ただ予め日本の天気予報を確認していたら、別の香水をつけていただろう。この匂いは少し、雨の日には合わないような気もする。
気づけばバスはゆったりと進み始め、高速道路へと差し掛かった。アメリカのハイウェイと違い、車線の幅が狭い。車窓から眺めていると、鼻先スレスレだと勘違いさせるほど近くを一台のセダンが猛スピードで通り過ぎていった。運転している彼か彼女かもまた、何かに追われているのだろうかと思い後方を振り返るが、パトカーどころか後続車の姿すらそこにはなかった。
視線を遠くの空へと向ける。シャトルバスは山間を縫うように走り、時にはトンネルをいくつかくぐり抜け、暫くすると次第に高層ビル郡が姿を現しはじめる。
「あ」
ついに雨が降ってきた。
窓がポツポツとシミを作り始め、タイヤが路面の水を切り裂く音が響く。遠くにそびえ立つ高層ビル達が白黒映画に走るノイズのように濡れていく。折りたたみ傘は持っていただろうか、と脳内を検索するが記憶にはヒットしない。まぁ最悪コンビニでビニル傘でも買えばいいと割り切った所で、高速を降りて何処かの駅ロータリーへとシャトルバスは侵入していく。
コートの中からカーディガンの袖を少しだけ長くだして、志希はゆったりとタラップを降りる。
低いバスの唸り声、高架を通る電車の心地よいリズム、甲高いクラクション、蠢く雑踏の喧騒。
排ガスの、人々の、酒の、乾いた吐瀉物の、何処かから流れてくる紫煙の、飲食店の裏から漂う生ゴミの混じり合った、匂い。
「東京だ」
そんな初めて上京した田舎娘のような率直な感想が唇から漏れる。
志希にとって、東京のイメージは無秩序な音と匂いと光の奔流だった。こんな大して広くもない面積の土地に、有り得ないほど多様な人と音と匂いと視覚情報が充満している。まるでジュークボックスが所狭しと並べられた手狭で陽気なバーに迷い込んだような、そんな感覚がある。
とりあえず近場のコンビニに入り、ビニル傘とペットボトルのジャスミンティーを買ってから、志希は気の向くままに東京は渋谷の街を歩きはじめる。
目的があるわけでもない。ただ気の向くままに歩いてみる。多方向から人が行き交うスクランブル交差点を踊るように抜けて、夜行性の動物みたいに活動し始めた呑み屋の客引きを適当にあしらいながら、ゆったりとした坂道を登り、時には下り、地下街に入り大通りを歩く。
適当に見つけたブティックを冷やかし、かわいらしい雑貨屋をショウウィンドウ越しに眺め、ジャスミンティーを八割ほど飲み干した頃には辺りは夕闇に包まれていた。
「どうしよっかにゃ~」
気づけばたどり着いていた代官山駅の博物館めいたエントランスを眺めながら、志希はそう呟く。
日本を発つ前に暮らしていたマンションはそのまま残っているが、出来れば時間の許すギリギリまで帰りたくなかった。部屋には数年分の埃が積もっているだろうし、多分きっと色々片付けなければならない。それにひょっとしたら、親が待ち構えている可能性もあるのだ。
きっと会ってしまえば、あの部屋に戻ってしまえば、あたしはまた普通の子ではいられなくなるんだろうな、という予感がある。
こうやって東京の街をふらついている間は、一ノ瀬志希は普通に女の子として存在できるのだ。天才だとも鬼才だとも変人だともギフテッドだとも言われない。ちょっと匂いに敏感でマイペースな、ただの女の子でいられる。
普通ではないことが、自分の中で一番大切な場所に位置している時もあった。勿論今でも、嫌なのかと問われると別に嫌じゃないよ、と答えるだろう。事実今までの経歴がそうであるし、自分のパーソナリティやスキルがそうなのだから否定のしようもない。ただそれでも、ほんの少しぐらいはそれを棚に上げておきたいときもある。何も縛られず、何も考えずに生きる。そう思うのも一ノ瀬志希を形成する一つのパーソナリティなのだから。
端的に言えば、アメリカの大学は志希のお眼鏡に叶わなかったのだ。つまりはそういうことでいい。深くは考えないし、考えたくもない。過去は常に不変であり、結果にはいつも過程が付き纏うのを志希は理解している。
矛盾しているな、と自分でも思う。それでも、今こうやって東京に自分がいること事態が矛盾しているのだから、それでいいと思考を放り投げる。
要するに、もっと面白くて興味深い、今まで知らなかった何かに出会えるならそれでいい。
しかしその願いも、別に渇望するほどの物ではない。
東京は孤独だ。これだけ沢山の何某かが存在しているにも関わらずそう感じる。そんな他人ばかりの街で、自分の心を刺激するものに出会える確率は新元素を発見するにも等しいとすら志希は思う。
「ん~……。ん~……?」
ふとその時、鼻孔を何かがくすぐった。
匂いのしたほうへ意識を向けるが、雑踏があるだけで特別なものは何もない。それでも目には見えない何かがそこにある。志希の鼻は、微かな残り香をはっきりと捉えていた。
「ふんふん……」
僅かに鼻を動かして近づいて、犬にようにその正体を探ろうとするが上手くいかない。自分のデータベースを検索してみるも、該当するものどころか類似性のあるものすら見つけることはできなかった。
良い香りだけれど好奇心をくすぐる危なげな形容し難い匂い。よくわからないけど、面白い匂いだと志希は思う。
「ふふん」
何故だか妙に楽しくなる。
初めて香りというものを意識し始めたときと、同じ高揚感が胸中にじんわりと広がる。
そこに漂うだけのそれは、もう数分もすれば消えてなくなってしまうだろう。だからこそ、今日はここに留まっても仕方がないと志希は割り切る。
「今日は帰ろっと」
先程までの些細な葛藤も忘れ、志希は脳内で鼻歌を歌いながら駅の改札へと歩を進める。きっとまた明日、ここに来ればこの残滓が何かわかるような気がする。化学に携わる物としてはオカルトめいた予感だったが、こういう直感は大事だと同じく化学から学んだ経験もある。
願わくば、良い明日が訪れますように。そう普通の女の子のような淡い期待を抱きしめながら、志希は改札をくぐった。
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