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 いつからこんな風になったんだろう。
 例えば、みんなの言うお笑い芸人が分からなかったり、イケメン芸能人の区別がつかなかったり、バラエティ番組のコーナーを知らなかったり。
 そういうことが段々増えてきた。
 例えば、若い男の先生にきゃあきゃあ言う同級生のことを不思議に思ったり、「少年漫画なんて子供の読むもの」と豪語する女の先輩のことを苦手だと感じたり、昨日まで深爪ぎみだった友達が、いつのまにか爪磨きで先を整えるようになったことに驚いたり。
 そういうことが、次々と出て来た。
 あれ、おかしいな。おかしくないのに、何かがおかしいのだ。
 わたしは、プロになりたいわけではないけれど漫画を描くことが好きだ。描くことに集中したいときはドラマもバラエティも見たくないし、ラジオかアニメのサントラを流していた方が集中できるし効率が良い。「昨日のドラマ見た?」と聞かれてもすぐには思いつかない。「昨日のアニメ見た?」だったらすぐに分かるのに。
 わたしは、少しずつ、有り体に言えば周りとずれていった。そして、よく言われるようになった言葉がこれだ。
「だって、比奈ちゃんに話しても分かんないよ」
 ああ。然り、然り。その通りっス。荒木比奈は普通の女子ではなくオタクで、オシャレよりアニメが好きで、カラーペンではなくコピックを吟味するような奴なのである。そういう人種、そういう生き方、そういう属性なのだ。気付かないうちに出来ていた溝が、これまた知らない内に崖になっていたと言うべきだろうか。
 崖は、もう底が見えないくらいに深くなっていた。
 わたしは小心者だった。臆病者でもあった。普通の人との間に出来た溝を埋めたり、崖を飛び越えたりできなかった。しようとも思わなかった。
 極め付けが、陰口をうっかり聞いてしまったときだった。
「何か話噛み合わないんだよね」
「話しても言ってることが分かんないときあるよね」
「話ちゃんと分かってる? って聞きたくなったり」
「するする」
「荒木ってそういうタイプだよな」
 出て行かなくてよかった。怖いという感情は本当に人の身体を竦ませるのだ。わたしは一歩も動けずにわたしの陰口を聞いた。荒木、話の噛み合わない荒木という女の子。それはつまり、わたしのことだ。
 そういう。
 そういう、というのはつまり。
 そういう人種、そういう生き方、そういう属性、ということで。それはわたしがまさしく感じていたことと同じだった。わたしはずれている。わたしはおかしい。わたしはやっぱり、変なのだ。
「荒木って、そうだよな」
 もういいや。
 もういい。
 わたしはそうやって諦めた人生を送ろう。
 一生日陰者でいよう。せっせと漫画を描いて暮らそう。バイトして、イベントに向けてスケジュールを練って、それ以外のことへ向ける関心をできるだけ削ぎ落として、女子力がいつまで経っても低いことを他人に笑われながら、そして死ぬまで生きよう。それだけで良い。良い、のかな?
「荒木って、***」
「***、そう***」
「***、***、***」
 周りのみんなが宇宙人に見える。触角があるわけでも肌の色が緑なわけでもないのに。何という言葉を話しているのかも良く分からない。同じ星の言語とは到底思えない。まるで宇宙人の群れの中に放り込まれたようだった。普通の人との間に出来た溝が、そっくりそのまま宇宙空間になってしまったと言うべきか。
「***、***、***」
 でも本当に宇宙人なのはわたしだった。わたしだけがおかしいのだ。わたしの声だけがみんなと違う。わたしだけが周りの声に馴染めない。わたしだけが気付かないうちに、宇宙人になってしまっていたのだ。
「***、***、***」
 だから何も聞こえない。
 漫画を描こう。没頭しよう。宇宙のすみっこみたいな家で、好きなことだけをしていよう。
「***、そこの君!」
 そう思っていたのに。
 ……んん?
 わたしの耳に届いたのは宇宙語ではなかった。
 呼びかけられているのだとようやく気付いた。わたしを呼んでいたのは、わたしとは縁遠そうなスーツ姿の人だった。余程急いでいたのか、肩で息をしている。
「な、何っスか……?」
 目には絶対捕まえるという意思すら感じる。そのことに怯えながら、わたしは逃げ出すことができなかった。
 言葉が聞こえる。言語を正しく理解できる。たったそれだけの理由だった。宇宙人ばかりのわたしの世界で、その人の言葉だけが宇宙語ではなかった。ただそれだけで、嬉しくて、わたしはいつも通り過ぎる街で、足を止めたのだった。
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