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 脱線事故が、目の前に迫っている。
 
   ***
 
 わたしには、自分が丸顔であるという自覚がある。頬があまりに丸い。りんごみたいだ。それに気付いたときわたしは、これから先ずっと、鏡を見るたびりんごのことを思い出すのだろうかとうんざりした。気付けば鏡を見るたび溜息を吐くようになった。アイドルになりたいのに、こんな丸顔じゃ無理だ。目もまつげも頬の赤みも、何もかも地味で、普通。それが工藤忍だった。
 
お母さんが銀色のぴかぴかした美顔ローラーを買ったのは、わたしがそんな自分の地味さに気付いた頃だった。
「それ、本当に美人になる?」
「お母さんも今から試すのよ」
「アタシもやりたい」
「だめ」
「お母さんばっかりずるい! アタシにも使わせて! 使いたい!」
「あんたに美人とかフェイスラインとか言う話はまだ早い!」
「早くないよ! 遅いくらいだよ」
 そう本当に、遅いくらいだった。わたしはもっと早く、アイドルになりたいと自覚していたかった。そうすればもっと早くなまりを直すよう心がけられたし、アイドルとして一番可愛い微笑みの角度を研究していただろう。高校生になった今でもアイドルになりたいのだと素直に宣言することもできただろう。
 お母さんはまだ、わたしがアイドルになりたいという夢を持っていることを知らない。もし知っていたとしても、あくまで「なりたかった」「子供の頃の夢」としてだろう。現在進行形でそう思っていることは、恐らく知らない。この先言えるかどうかも分からない。気付けばそういう夢を口に出来る年頃はとっくに過ぎてしまっていた。「家の跡継ぎ」「お婿さん」「時期はいつ頃」という話を、小さい頃から嫌になる程聞かされていたからかもしれない。アイドルになりたいという自分の夢が、周囲からのそういった期待を全て裏切ってしまうことにも、いい加減気付いていた。わたしの未来は、周囲が当たり前に思い描く現実にしかレールが繋がっていない。アイドルになりたいなんて、きっと周囲から見れば脱線事故だった。外れて、倒れて、どんがらがっしゃん。それで終わってしまう、夢のような夢。「忍にはアイドルなんて無理」と一蹴されるのを待つだけの、本当の、わたしの夢。
 お母さんは、美顔ローラーを自分のドレッサーに大切にしまった。使いたいというわたしの声には耳を貸してくれなかった。わたしはそれが悔しくて悔しくて、普段の自分では考えられない行動に出るようになった。
 夜、お母さんの部屋に忍び込んだ。
 眠っているお母さんのベッドをしのび足で通り抜けて、ドレッサーを開く。手探りでローラーを探り当てて、自分の頬に当てた。恐る恐る、美顔ローラーの音が響かないようにゆっくりと転がした。夜の空気に冷やされたローラーで、何度も何度も自分の頬を撫でた。えへへ、と変な笑いが漏れた。
「忍、最近顔色悪くない?」
 学校の友達がそう言う。何でもない。へっちゃらだよ。ちょっと夜更かししてるだけ。美顔ローラーを試してるんだ。これでわたしの丸顔も、少しはすっきりシャープな感じになるかな、なんて。
 そんなことは言えなかった。そんな話をすれば、アイドルになりたいという夢まで話してしまいそうだった。話してしまえば、終わりだ。世間が狭過ぎる田舎では、些細なお喋りが一気に噂になって広がってしまう。そうなればわたしは、家族やその周囲の人々によって、アイドルになりたいという夢を完全に絶たれてしまうだろう。
 夢を叶えたいという思いの反対側に、夢であればずっと見続けていられるという思いがあった。わたしは、アイドルになりたいわたしから、アイドルに憧れる田舎の女子高生になっていく。そして「昔はそんな夢を持ってたね」と言う大人の女になっていく。そうなのだろうか。そうなのかもしれない。工藤忍は、地味な、どこにでもいる丸顔の女の子のまま、アイドルにはなれずに大人になっていくのかもしれない。
 ある日、お母さんがお父さんと一緒に出掛けていった。親戚の集まりがあるらしい。忍も来る? と声をかけられたけれど、テストが近いからと言って断った。テストが近いのは本当だったが、目的は違った。わたしはお母さんの寝室へ入り込み、ドレッサーを開いた。夜にしのびこむときは当然真っ暗だから、わたしはいつも感触だけで美顔ローラーを探り当てていたが、今日は違う。小さな戸棚を焦りがちに開けば、銀色のボディに燦々と光が降り注いだ。すりすりと頬を撫でてみる。本当は少し痛いような、でも気持ちいいような、不思議な感触が頬を滑っていく。これで、アイドルになれるだろうか。すっきりシャープな顔立ちで、ファンの声援があって、きらきら輝くアイドルに!
 わくわくしてわたしは顔を上げる。お母さんのドレッサーは三面鏡になっている。三つの鏡全てにわたしが映っていた。丸顔で、地味な、田舎の女子高生が映っている。りんごみたいだ。目もまつげも頬のラインも、特別なところは一つもない。普通の女の子に過ぎない工藤忍がいる。美顔ローラーを何度コロコロしても、わたしは変わらない。わたしは地味なわたしのままだった。
「忍?」
 びく、と肩が震える。
「あんた何してるの?」
「おか、お母さん。あ、あれ、集まりは? 集まりがあるって……」
「あんたに郵便来てたの、言い忘れてたと思って戻ってきて」
 ほらこれ、とお母さんが差し出す。大きな茶封筒。下の方には、見覚えのあるプロダクション名と、遠い都会の住所が印字されている。
 わたしは、美顔ローラーを放り出してその封筒に手を伸ばした。早鐘のように打つ心臓の音につられて、手がぶるぶる震えた。わたしの剣幕に驚いたのか、お母さんは封筒から手を離した。地面に落ちる前に、私は封筒をしっかりと掴む。
 ゴトッ。背後で、美顔ローラーが床に落ちる。お母さんが大切にドレッサーに仕舞っていた美顔ローラーが。
 走り出す。お母さんの部屋から、逃げるようにして出て行く。怒号に近い「忍!」という呼び声を背にして、わたしは鍵のかかるわたしの部屋へ走る。お母さんがわたしに、どうして美顔ローラーを勝手に使ったのかとか、どうして東京から手紙が来るのかとか、そういう一つ一つの「どうして」に、答えたくなかったからだ。
 扉を開けて自分の部屋へ飛び込んだ。「忍! 待ちなさい!」お母さんは怒っている。わたしは部屋の鍵を後ろ手に締めた。ぶるぶる震える手で封筒を開こうとした。のりが強くくっついていて剥がれない。端から慎重に開けようとしても、気が急いて気付けば破ってしまっていた。
 遠い都会から来た封筒は、気付けばみすぼらしくぼろぼろになっていた。
【弊社第二期アイドルオーディション一次審査(書類審査)通過のお知らせ】
 薄っぺらな紙にそう印字されていた。扉の向こうからは「忍!」と叫ぶお母さんの声がまだ聞こえている。お母さんが諦めて部屋の前から去るまで、わたしは扉に背を向け続けた。
 
 これっきりだ。もしこれでアイドルになれなかったら、わたしはアイドルを夢見るだけの、どこにでもいる田舎の女の子のまま生きて大人になろう。美顔ローラーなんて二度と試さない。自分の顔を鏡で見るたびりんごを思い出しても、そのことに溜息をついたりしない。でも今は。今は。
 今のわたしは、アイドルオーディションの一次審査に通った、少しだけ特別な女の子だ。丸顔で、地味で、普通だけど、でも、アイドルになれるかもしれない女の子だ。
 だから、これが最後。
 わたしはアイドルになりたい。
 
   ***
 
 家出をして上京すると決めた。荷物は鞄にもう詰め込んである。
 わたしは、当たり前に思い描く現実から、踏み外して落っこちる。勢いよく落っこちる。
 脱線事故が、目の前に迫っている。
 さあ、行こう!
 
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