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 涼子って名前にすれば良かった。
 お父さんが「今時女の子に『子』なんてつけない」と言い張らなければ、きっと涼子という名前にしたのに。わたしが、そんな名前は男の子みたいだから嫌だともっと真剣に抗議していればよかったのに。
「学校にはもう行かない」
 そのせいで今、わたしの娘は、こんなことを言うようになってしまった。自慢だった黒髪を金髪に染めている。塗りつぶすような派手なアイメイクまでして。
 いったい、この子は誰だろうか。わたしの娘のはずなのに、ちっともそんな気がしなかった。ほんの数年前まで、わたしは娘が美しい髪でいられるように、ブラシで彼女の髪を梳いていたはずなのに。毎朝お弁当をこしらえていたはずなのに。その何もかもが遠く手の届かない場所へ行ってしまったような気がした。
「バンドをやるんだ。家も出て行く」
「馬鹿なことを言わないで」
「真剣だよ。アタシは本当に……」
「馬鹿なことを言わないで! その髪も、元に戻してきなさい! 今すぐ!」
「お母さん」
「言うことを聞いて、涼!」
 耳障りな声だった。自分の声が、驚くほど醜かった。わたしはこんなにみっともない声でがなり立てるのか。知らなかった。だってこれまで涼は、わたしにとって苦しみや悲しみを運んで来るような存在ではなかったから。ただ少しの困難と、たくさんの喜びと幸せを運んでくれる子だったから。
 やっぱり、やっぱり。涼子って名前にすればよかった。もっと女の子みたいな名前にすればよかった。でもきっと、涼子という名前にしても、何も変わらなかっただろうとも思った。この子はわたしの知らないところで友人を作り、わたしの知らない趣味を持ち、わたしの知らない歌に瞳を輝かせる。わたしとは違う生き方をする。
 この子は、どこへ行くのだろう。体一つで、その声一つで、どこまで行くのだろう。寂しい思いをしないだろうか。辛い思いをしないだろうか。母親から大きな声で怒られて、きっと嫌な思いをしただろうに。
 涼は背を向けて、家を出て行った。あんな派手なブーツを持っていたなんて、今まで知らなかった。けれど、涼は分かっていたのかもしれない。母親が、不理解で、融通の利かない、自分とは全く違う生き物だと分かっていたから、こうして家を飛び出していくことしかできなかったのかもしれない。
 どうしてこんなに悲しいのに、これほど幸せを祈っているのだろう。悲しいのはわたしで、幸せを祈っているのもわたしだった。あの子が思い通りにならないことがこんなに悲しい。けれど今すぐこの扉を開けてあの子を抱きしめて、頑張りなさい、貴女なら必ず出来ると励ましてやりたい。けれど足が動かなかった。わたしはただ駆けていく涼の足音を送るだけだった。
 
 松永涼。
 涼。わたしの、大切な娘。
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