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「加奈は、小さい頃の夢ってなんだった?」
 
 みんなが帰ったあとの教室で、ひとつの机を挟んで座った友人から、加奈はそんなことを聞かれた。二人の囲む卓上には、未記入の進路調査票が一枚、置かれている。
 
「幼稚園の頃はお花屋さん」
「おー、定番だね」
「小学校の卒業文集には、がっこうの先生、って書いたよ」
「なるほど」
 
 それだけを聞いて満足したのか、友人は一度おとなしくなった。前の席の椅子を借りて、机に対して横になるように座り、デジタルカメラで撮った写真を確認したり、メモ帳に文字を書きこんだり、新聞部員としての作業を着々とこなしていく。加奈はまた机とにらめっこに戻っていた。
 七月の午後四時、静けさの中で蛍光灯のかすかな震える音を聞く。窓際の白いカーテンがふわっと盛り上がると、雨上がりの湿った涼風が二人の間を抜けていく。飛ばされまいとするように、上質紙が自らの端をぱたぱたと忙しなく動かした。
 
「加奈はさ、なにをそんなに迷っているの?」
 
 再度、友人から質問が飛んでくる。加奈は、「んー」と気の抜けた相槌をうち、さきほどのようにすぐには答えられないでいると、
 
「アイドル、って書いておけばいいのに」
 
 とんとん、と第一志望の欄を指で小突かれる。
 
「進路調査にその解答はどうなの? たぶん、というか間違いなく、どこの高校へ行きますかってことを聞いているんだと思うけど」
「分かりやすくていいじゃない」
「じゃあミウナは、カメラマンって書いて出したの?」
「さあ、どうでしょ」
 
 はぐらかされたようで、その反応は絶対に書いてないやつだ、と加奈には知れたことだ。中学入学以来、同じクラスに同じ部活(ただし一方は完全なる幽霊部員だったが)で、三回目の夏を迎えようとしているのだから、さすがにもう分かる。同じくらい彼女も加奈のことを知っている。今ではこの学校で唯一この友人だけが、加奈がアイドルを目指すレッスンに通っていることを知っている。
 
「先生はなんて?」
 
 学校の先生も音楽教室の先生も一緒に、『先生』と友人は呼ぶ。今のは後者だ。
「あなたが本当に望むようにしなさい、って」
 
 先生は言った。でもね、アイドルになりたいのなら、一番は東京、もしくはそれに準ずる都市へ行き、ちゃんとした養成所に入った方が良いわ、と。そうするべきだ、とまなざしで告げていた。
 
「加奈の先生は優しいねぇ。それでとっても、辛辣だ」
 
 加奈も同意する。トモ先生は、背が高くて長い髪が綺麗な優しい女性だ。昔、東京の音楽学校へ通っていたくらいピアノが上手で、今は雑居ビルのワンフロアで音楽教室を開いている。器用な人で楽器はなんでも教えられる、声楽のレッスンも開講している。
 そこでアイドルたちは指導を受けていた。基本はボイストレーニングで、ダンスの振り付けはテレビに映るアイドルたちを真似して、時には楽器を習うこともあった。加奈は苦手だった筋力トレーニングやストレッチも、教えてもらってからは毎日こつこつとやってきた。
 本当にこれでアイドルになれるのか、なんて疑問は加奈の中にまるで浮かんでこなかった。幸せな日々だったからだ。そもそも、そこにアイドルになるという目的など、なかったのかもしれない。世界の片隅で行われるアイドル見習いごっこ。加奈とトモ先生と、もう一人、はじめにいた一人が――。
 
「きっと先生は先輩が、」
「よし」
 
 話はここで終わり、と友人は立ち上がり、ペンと手帳とカメラをぽいっと放り込んで鞄を持つ。
 
「そろそろ行こうか」
「え、あ、うん」
 
 突然の言葉に手を引かれ、加奈も慌てて腰を上げる。急いだせいで、掴んだ進路調査票がくしゃりと音を立てた。
 
 ☆
 
 加奈がセンパイと出会ったのは、中学校に入学してひと月くらいした頃だった。放課後に、センパイは花壇の傍にある日当たりの良いベンチで、文庫本を読んでいた。昇降口からすこし外れたところにあるその場所は、一緒に帰る友達を待つ場所としてはうってつけのようで、他にも何人かの生徒が本を読んだり、のどかに空や花を眺めたりして過ごしていた。
 空いている場所がそこしかなくて、加奈はセンパイのとなりに腰を下ろした。三十センチほど間をあけて。センパイは人の気配を感じとった様子で文庫本から顔を上げた。濃い青色をした表紙には、注文の多い料理店、と記されていた。
 花壇に咲いた白いマーガレットがセンパイの第一印象として鮮明に残っている。白くて、可憐で、小柄な人だ。癖のついた髪先が、春風にふわふわと揺れていた。とりとめのない挨拶を交わす。容姿と寸分の違いもない、綺麗で柔らかな声をしていた。
 忘れもしない、たった一言ささやかれた。かぼちゃを馬車に変えた、呪文だ。
 
「ねえ、加奈ちゃん。あなた、アイドルになってみない?」
 
 思い出すと、同じ笑顔だ。卒業式の日、桜の舞う中で、センパイが抱いていたのは一輪の白いカーネーションだった。その花もまたひどく彼女の雰囲気に馴染んでいた。
 よく晴れていたのに、とても寒い日だった。日中でも気温は一桁台に留まり、三月の気温としては観測史上最低だった、と夕方のニュースで流れていた記憶がある。
 
「村上春樹の小説にね、こんな文章があるの」
 
 袖の余ったネイビーのダッフルコート、大きめのポケットにはいつだって文庫本を入れている、読書が好きな人だった。
 
「『ここは世界の終りなんだ。ここで世界は終り。もうどこへもいかん。だからあんたももうどこにもいけんのだよ。』」
 
 だから、アイドルになるのはもうおしまい、とセンパイは言った。北から吹いた風に、吐息が白く濁って、青の中へ霧散する。
 ☆
 
 澱を思わせるような流れで、空模様が変わっていく。
 夏の入り口、夕暮れどき。低いものから色を奪われていく。固められた地面、空地を埋める丈の長い草、車のウインドウ、標識、新築の家の屋根、電信柱と電線、木々の葉っぱ、鉄塔、名も知れない鳥、南風に流される散り散りの雲、もうそこまで夜の色に塗られている。そこから上、彩りを奪う魔女の絵筆から未だ逃れて、高くを泳ぐ海老色の薄い雲、飛行機の軌跡、藍色と橙色の混じる空、しかしそれらもじんわりと、浸食という言葉が似つかわしい具合に、色が褪せていってしまう。
 中学校の最寄り駅から一駅分を歩いて、県内で二番目の規模を誇る駅にやってきた。加奈の友人は、そこで行われている七夕のお祭りを取材しにきたのだ。
 駅前の広場には香ばしい匂いを漂わせる屋台が並び、飾りと灯りをつけた笹が賑やかしにいくつか立っていた。鉄板がものを焼く音、氷の削れる音、太鼓と篠笛、ポンッとかコンッとか鳴る遊戯、だれかのつけた鈴の音、人もずいぶんたくさんいて、「晴れてよかったねー」だの、「あれたべよう」「あっちいこう」だの、「お願い事なににしたー」といった飛び交う雑多な音を浴びながら、二人はまわりとぶつからないように気を付けて進む。
 
 駅舎の中へと入ると、じゃあ取材の許可をもらってくるから、と友人は駅員の詰所へ向かってしまった。ひとり残された加奈は、屋内に設置されている短冊の吊るされた大きい笹を、ひとつひとつ見て回った。
 たくさんの願いが、夢が、そこにはあった。すぐそばにいる人たちが、意志をこめてあるいは祈りをこめて、新しい想いを結んでいく。すべてを支えるのは、葉っぱの先までぴんと伸びた立派で大きな笹だ。そいつを見上げていると、加奈はなんだかきゅうっと喉が閉まる心地になって、苦しくて歯がゆくて目と鼻の内側がじんわりと湿気を帯びるのが分かった。
 どうしたらよいのか。小さな悩みだと思う。夢とは何か。傷つき、もがき、乗り越えた先で自分自身の幸福を得るという。加奈はすでに幸せを得ていた。けれどその幸せがどうしても終わるのだと知った時から、大きな幸福は恐ろしい強力な毒のようにも思えてしまった。夢は見たい。でも夢の終りは、どうしても悲しくて寂しいものが見えてしまう。
 泣いてはいけない、と加奈は自分に言い聞かせる。根拠のない不可解な直感を、いつの日からか抱えている。
 
 決して、自分のために、泣いてはいけない。
 
 下がりかけた顔をぐっと持ち上げる。そして、上を向いた加奈の瞳が一枚の願いを捉えた。
 真っ白な短冊は、加奈が手を伸ばしても届かない位置、笹の分かれた枝の生え際に、あえて裏向きでくくりつけられたようだった。ぐるりと笹のまわりを一周したが、どの位置からも幹や枝葉に邪魔されて短冊の表側を見ることはできなかった。多分、そういうふうに付けたのだろう。見えない位置に、隠すように。それは暴かれることを望まぬ秘密なのだから。
 ある言葉が加奈の脳内で蘇る。年老いた理科教師の訥々とした語りは、誰にも理解されないことを悟った後の独り言のようでもあった。「星はそこにはないのです」、と。遠い時間からやっと届いた呟きにしたがって、加奈はそっと垂れ下がった笹の葉っぱをつかみ、優しく視界からどかす。重力が光を歪ませるのなら、人の力で世界を変化させることもできるのではないだろうか。
 キミの知っている星が瞬いている。
 
『加奈ちゃんがアイドルになれますように』
 
 光が灯る。肉体は宇宙で、細胞は星だ。心臓という銀河の傍に、ミクロの、何もなかった暗い場所が爆け、小さな火が起こり、ぽうぽうと呼吸を初め、柔らかな明滅をする。光は伝播し、加奈と一体になる。頭のてっぺんからつまさきまでを、めぐってめぐって、やがて完全に加奈の形を覚えた光が、肉体をそこに残したまま駆け出していった。光は駆け、やがてその形を馬へと変える。黄金に輝く光の馬は、何も存在しない空間を自由に力強く蹴る。馬が加速する。爆発的に速度を上げ、もうほとんど飛ぶような速さで走っている。そして文字通り高速の世界で、光の馬が見た景色が加奈の目に流れこんでくる。脳の処理能力をはるかに超えたそれは、ただ輝き、ただきらきらと、これでもかという具合に煌めいていた。眩しい。眩しい。まばゆい。
 
 ふらついた足がたたらを踏んで、はっとする。
 
 知らない場所に立っている。横幅の広い橋の手前、靄の浮かんだ川の向こう、青空の下には高層ビルの群れがある。歩道に一人の女性がいる。新古の傷をいくつも負って、すこしずつそれを癒しながら、すこしずつなにかを零しながら朝焼けの世界を進むその人は、紛れもなく大人の背中をしていた。加奈が、彼女の名前を呼ぶ。長いコートと長くなった髪を翻し、驚いた顔が表れた。ずっと昔、心に固く結んだ紐はもう解れかけてて、泣きそうになっている。でもそれはきっとどちらとも、だ。分かっていた。夜を通り抜けた大人の瞳は、優しさと羨望に満ち、不安を隠す、後悔に濡れた跡がある、蓄積された光が鈍く煌めいている。「きっと」とあなたは言う。
 
 キミは大人になる前に、子供でいられなくなる。
 
 体の熱が冷め、喧騒が戻ってくる。服の袖を引っ張られているような気がして、右後ろに首を捻ると小さな羊のぬいぐるみ、と見間違えそうになる女の子が、実際に加奈をちょいちょいと引いていた。ランドセルを背負った、まだ小学生になったばかりに見える、ひときわ小さな女の子だ。
 
「あれ」
 
 女の子の透き通るような指先は、純白の短冊をまっすぐさしている。加奈は小さなその子と見えるものを共有しようと、スカートの扱いに気を配りながら隣にしゃがみこんだ。
 
「きれいねー。きらきらしてる」
「そう見える?」
「うん。すっごくきれいねー」
「あれ。あれはね、おねえちゃんのお星さまなんだ」
 
 加奈が高揚感を押さえきれず自慢気に言うと、
 
「あれおねーさんのおほしなの!?」
 と女の子は目を丸くした。
「じゃあ、おねーさんが、かなちゃん?」
「うん。そうだよ」
「そっかー」
 
 加奈も少女に、「あなたはなんてお名前?」と聞いた。
 小さな女の子は答えなかった。「そっか」と自分の中で何事かを確認するようにもう一回くちにだして、急に困ったように眉を下げて、唇にぐっと力をこめて、なんだか泣き出しそうにも見える。
 
「これ、かなちゃんにあげるね」
 
 押し付けられたものはくしゃっとした感触を加奈の手の中へ残した。短冊のようだと手触りで予想をつける。
「え、いいの?」
 
 こくんと少女は頷いた。「だって」とまた星のなる木を見仰いで、掴もうと手を伸ばす。照明の光線と目が合ったのか、眩しそうに目を細めた。
 
「あのおほしはてがとどかないから」
 
 少女の言葉につられて、加奈も星を見上げた。ほんの数秒の間だったのに、次に視線を横へ戻したら、小さな人影はどこにもなく、きらきら反射する粒子だけがあの女の子の残り香みたいに宙を漂っていた。立ち上がり、手のひらを広げ、渡されたものに少女の字が並ぶ。
 
『おねーちゃんのゆめがかないますように』
 
 火の熾る温かさと鈍い痛みが胸の内に湧く。覚えたての感情を加奈は大事に扱った。いまは分からなくても、すぐに分かる。だからそのお願い事の皺を伸して、愛用のメモ帳へ大切に挟んでおく。
 すこし離れたところに友人が立っていた。彼女は手元のデジタルカメラを納得のいかないといった表情で見つめて首を傾げている。
 
「撮った?」
 
 加奈が問いかけたのは、彼女が自分を撮ったであろう確信があったからだ。友人は、時おり秘めやかに写真を撮った後、さっきみたいならしからぬ顔をのぞかせる。
 
「わたしさ」
 
 やっぱり加奈の質問に答えは返ってこない。べつに残念がることもない。
 
「高校に行ったらアルバイトをしようと思ってるんだ」
「前に言ってた、いいカメラを買うために?」
「そう。お年玉とか誕生日のお祝いにもらったお金を貯めてたけど、それじゃ意味ないや、って思って」
「そっか」
「うん。で、そのカメラを持って、わたしは加奈をおっかけるよ、きっと、地の果てまで」
「地の果て、って、ねぇ。わたしはいったいどこまで行けばいいのかな?」
 
 加奈はもう一度、と聞いてみる。なぜだか、光が返ってくる予感があったからだ。金色の馬が見せてくれた星に、この光景もあったように思う。夜の手前、改札口の前、いつか思い出すときがくる、この場所で、「そりゃもちろん」と友人ははっきりと答える。
 
「東は室戸岬から、西は足摺岬まで」
 
 一瞬の光が空白を生む。あまりのくだらなさに、お互い心地の良い笑いを得る。
 
「それって、高知の果てまで?」
 加奈の突っ込みに対して、友人はわざとらしく開けた口に手を当てて、驚いたような表情を作り、冗談味のはらんだ声で言う。
 
「あれ? いったい加奈は、どこまで行くつもりなのかな?」
 
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