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 目を開けると、そこには夜が広がっていた。
 子供のころ、特に意味もなくビーズを集めていた。それをうっかり床にばらまいてしまったことを思い出す。そんな空模様は何度も見た光景で、あぁ、もうそんな時間か、って冷静に考える自分がいた。
 上半身を起こしてまず気づくのは自分が寝転んでいた場所だ。
 平行に並んだ二本の錆色をしたレールがまっすぐにずうっと伸びていた。ちょうどおしりの位置には枕木が位置してあって、等間隔に置かれたそれの間にはいろんな形、色味をした石が敷き詰められている。左右それぞれにおよそ十度方向に視線をずらすと、名前も知らないくさぐさが塀みたいにずらっと生えていて、その奥は存在するのかどうかわからないくらいの黒で塗りつぶされていた。
 秋ってなんとも中途半端なものだ。口の周りが白で染まる冬の到来を肌で感じた、とおもったら、夏の忘れものみたいな暑い日があったりと、春夏秋冬という四つの文字の中で一番落ち着きがない季節なんじゃないかって。逆に言うと、前後より大げさじゃない分過ごしやすかったり、季節の移ろいを自分についたふたつのレンズで見ることができたりするわけで。ほにゃららの秋って言葉は他の季節よりも多い。だから商いも盛んになって飽きないのかしら、なんてね。
 そんな季節だから、寝間着はまだ夏を引きずったみたいなものだったりする。その代わりにタオルケットの上へ掛け布団を。寝苦しかったら足下に、肌寒い日は被って丸まって、どんなシーンにも対応できるようになっている。この季節に半袖で外に出るのはちょっとつらい。けど、私の今の格好はまさにそれである。ただ不思議なことに、寒いと感じることはなかった。暑い寒い、もしくはちょうどいい、なんてものはそこになくて、そう感じるものがすっぽり抜けちゃったみたいな変な感じがあった。
 風はない。はー、っと手のひらに息を吐く。無色透明だ。
 立ち上がると、やっぱり靴も履いていなかった。とげとげしい石の上に立っているのに痛さもない。もちろん、その冷たさも足裏から感じ取ることはできない。
 レールの上にひょいって乗ると、ぎぃ、って軋む音が耳に届いた。私、そこまで重くはないんだけど。見た感じ表面はザラザラしていてひんやりと冷たそうなものなんだけれど、物と足裏の間に薄い空気の膜があるみたいに感覚はない。きっとそれが重いから音がしたんだ、そう考えることにしよう。
 歩いてみる。ゆっくり、レールの上を落ちないように。
 昔、学校から帰るときに白線の上をはみ出さないように歩く、っていうのをやっていたことをふと思い出した。白線の外側は崖になっていて、少しでもはみ出すと真っ逆さまでゲームオーバー、なんて。それを線路で、って現実じゃできないことだ。だって鉄道営業法に引っかかっちゃうから。
 ここは夢の中。何度目かは忘れちゃったけど、いつか来た場所だ。
 スタンドバイミー、クラシックな響きを持ったリズムを突き出した唇から外に漏れる。あれはアメリカの映画だけど、日本にも線路を歩ける場所があるらしい。いつか行ってみたいなぁ、っておもうけど、単純に遠い。出不精、ってわけじゃないけど、なにかきっかけがないと遠出をしないタイプには、夢の中でそれが見事叶うのは嬉しさ半分、そして残りは虚しさって感情だ。
 自由にここへ来れるわけじゃない。自分の瞳に自分の顔が映らないように、私の頭の中は私自身じゃわからない。たぶん、なにかあるんだろうけど、それを考えることは言った通り「虚しい」なって。一応、現実と夢の境界線は引いている。大人だから。
 そう、すっかり私も大人だ。制服を着ていたときなんか、一年って長いなぁ、って漠然とおもっていたのに。お酒を飲めるようになって、いや、働くようになってからだったかな。三六五日もそうだし、一週間、もっと言えば一日の時間ですらあっという間に感じるようになった。本当にみんな同じ時間を過ごしているのかな、なんておもうときもしばしばあったりする。昔、誰かに「一年が短く感じるようになれば立派な大人」って言われた気がする。私は「立派な」大人なんだろうか。
 少しだけ歩く速度をあげてみる。特に意味はなく。
 両手を真横に広げて、キーンって言いたくなって。
 昨日の話、高校の同級生から電話があった。彼女は今でも和歌山にいるみたいで、干支が半回りぶりくらいに声を聞いた。別に嫌になったわけじゃなく(数少ない友人のひとりっておもっていたし)、生活の変化に慣れようとしていて気付いたら、っていうのが私の言い訳だ。
 そっちはどう? って彼女は言った。すっかり使い古された会話の一部だ。それでもこの長いような短いような年月を埋めるために必要なものだっていうのは確かで。モデルやってるんだよね、すごいよねー。スピーカーから聞こえてくる無邪気な声は、東京と和歌山の距離以上の遠さを感じた。向こうはそんなものを作ろうって意思を持って言ったわけじゃないだろうけど。こんな感情、贅沢なのかな。少しだけアルコールが入ってたのが悪かったのかもしれない。久しぶりだからっていうのもあって話は長くなった。本題の前にどんどんどんどん細い道が作られていく。私はただタイミングを見計らって相槌を打つだけ。しばらくして、わざわざ電話をかけた理由が彼女の口から告げられた。
 結婚、するんだとか。
 へぇ、おめでとう、ってモノクロな言葉が反射的に漏れた。電波の先ではカラフルな表情をした彼女の姿が(きっと私の記憶より変わっているんだろうけど)あるんだろう。軽くのろけられた、気がする。気がするっていうのは、ここから記憶がぽろぽろとこぼれ落ちていて、内容に自信がないからだ。
 足裏がレールを蹴る間隔が短くなる。相変わらず景色はなにも変わらない。目の前の暗闇に向かって行く。
 幸せ、とは?
 二十五になった私の人生は、ある意味とんとん拍子で淡白なものだった。モデルという道を歩いているのも、自分からじゃなくて人に連れられて。恋愛に目を向けても、モデルだからモテるだとか全然そんなことなくて、これはきっと私自身の問題でもあるんだろうけど。付き合うってことがよくわからない、って言うと大げさなのかな。ふと思い返すと、好きです、と告白されてつい、はい、って返事しちゃって付き合うってことしかなかった。それで私はどうすればいいのか、恋人ってどういう人たちのことを指すのかいまいちピンとこなくて、結局向こうから離れていった。ごめん、って言葉に、はぁ、そうですか、って、思い出すとなんてひどい女なんだ。でも、今の私でもそう言ってしまいそうな気がする。
 自分がないというか、自身がないというか、なんて言うんだろう。
 綺麗ですね、高垣さんの着ていたコート買いました、そんな嬉しい言葉を貰っても、それはカメラマンさんとかメイクさんとか編集の人とかがいいわけであって、私だけに向けたものじゃない。ありがとう、なんて形を持たない言葉を吐いて。
 結婚することが幸せっていうこと? それは人によりけり、いくつもある幸せの中のひとつだ。でも、それってなにか言い訳っぽく響いて、私の心をちくりと刺してくる。ありがたいことに両親は、いい人はいるのか、とか変に聞いてこない(私が気づいてないだけかも)から、いや、逆にそれがいけないのか。
 人が敷いたレールの上を歩くのは難しい、なんて言う人もいるだろうけど、意識してるかしないかの問題なんだと。レールの上を歩く、という意味を、理由を知っている人はたぶんそう言うんだろう。
 私は、きっと知らない。進む先は真っ暗で、今この状況が私をシンプルに表している。
 テンポが変わる、レールを蹴るリズムがゆっくりになって、そして止まった。
 振り返っても、前を向いても、そこに広がるのは黒、黒、黒で、なにも変わらない。どっちが進行方向なのか、もしかしたら全力で反対に向かっていたのかもしれないけど、それを教えてくれるものなんてなにもない。自分の今いる位置もわからない。
 ふと空を見上げる。私の心模様とは反対に、相変わらずいくつもの星たちが瞬くパノラマがあった。遥か彼方にあるであろうその星々に手を伸ばしてみても、掴むことどころか、撫ぜることだってできやしない。これが夢でも。夢なのに。
 きっとあれが幸せなんて呼ばれるものなんだろう。掴もうとおもって手に入るものじゃない、なんて感傷に溺れて、大きく息を吐いた。すると視界を左上から右下に切り裂く流れ星が。夢でもあるんだ、そんなことを考えていたらもう一筋、掲げた右手の中に入るように光を描いた。
 手を下ろして、亀が歩くくらいゆっくりと握り込んだ指を解いていく。そこには落としたら見つからないんじゃってくらい小さくて、深い赤をしたまんまるなビーズがひとつあった。夜なのに色さえもはっきり認識できるのは、それが星みたいにキラキラと光っていたから。反対の親指と人差し指でそれをつまんで、空に映してみる。どくん、どくん、って心臓みたいに鼓動を刻んでいるようにも見えた。とにかく綺麗で、手首を返していろんな方向から、近くから遠くへ離してみたり。まるで宝物を見つけた子供みたいだ、って笑ってしまった。
 特に理由はないけど、これが流れてきた方向に進めばいいんじゃないか、なんておもって、再び錆びたレールを歩き始めた。ちょうど、いや偶然にも私が歩いていた方向だった。これが正解かどうかは知らない。でもわからないなりに進んでみよう。この不思議な、たったひとつのビーズがそんな気にさせてくれた。
 いつかこのレールに終わりが来るかもしれない。そのとき、私はどうする? どこに行けばいいのか、わかる?
 どれだけ考えたって、今はわからないとおもう。
 あぁ、そろそろ時間だ。瞼が重くなってきて、幕が降りる。今宵は、ここまで。また朝が来て、一日が始まる。
 ビーズを握った手に少しだけ力を込めた。
 
 * * *
 
 今朝はいつもより寒い気がした。これがいつもと違う朝ってことだったら、私は気づけたってことなのかな。
 なんとなく、特に意味もなく、ちょっとだけ早い時間に家を出て、違う道を通ってみた。そこには踏切があって、ちょうど私が近くに来たときに走るテンポで警報器が鳴っていた。
 何両か数える間もなく電車がごおっと空気を揺らして通り過ぎていき、それが冷えた空気に溶けきる前に遮断棒は上がっていく。そしてバラバラな格好をした人たちが一斉に歩き始める。私はそれをじいっと見て、まるで不審者みたいってひとりで笑った。漏れた息は白かった。
 踏切のおそらく真ん中くらいから、はくちゅん、ってかわいいくしゃみが聞こえてきた。それからワンテンポあけて、フフーン、さすがカワイイボク、くしゃみもカワイイですね! って目立つ女の子の声が届いた。その方向を見ると、小学生くらいの女の子と、スーツ姿の男性が並んで歩いていた。親子、にしては男性が若すぎる気もするけど、晩婚化、なんてただテレビで勝手に叫ばれているものなのかもしれないから、きっとお父さんと娘さんなんだろう。
 お父さんが自分のワインレッドのマフラーを娘さんに巻いてあげて、とおもったら、タイミングよく(悪く?)強い風が吹いた。突風はマフラーを盗むように空に飛ばした。ただお父さんの手から離すことには成功したけど、ちゃんと掴めてなかったみたいで、ふわふわと風に乗ったあと、私の目の前にぽとりと落ちた。それを拾い上げるときの瞬き一度、昨日の夢で拾った真っ赤なビーズが映った、気がした。なんだろうと大きく瞼を開いて、わざとらしく二度、そして三度パチパチしても、目の前はなにか変化をすることはなかった。
「あぁ、マフラー、ありがとうございます」
 顔を上げると、そこにはさっきのお父さんがはにかんだ顔をして立っていた。距離は、だいたい三歩くらい。
「あ、はい、どうぞ」
「どうも」
 なんて不器用な会話なんだ。自分でもそうおもってしまうくらいへたくそな言葉に、ちょっぴりの自己嫌悪が顔をのぞかせた。
「まったく、なにやってるんですか」
「全部風のせいだけど、一応謝っておくな」
「ボクにマフラーを巻く機会を逃して、さらには他の方に迷惑をかけるなんて、しょうがない人ですね」
 ただマフラーを拾っただけだから迷惑だなんて、とは言えずにタイミングを失った私はただその場に佇むばかりだった。
 近くで見ると、女の子は「かわいらしい」って言葉がぴったりで、おもわずじいっと見てしまった。失礼だな、って視線をずらそうとしたとき、タイミングが悪い、ばっちりと目が合ってしまった。
 反射的に出たごめんなさいと大きく跳ねた心臓に、ちょっとだけ体が熱くなるのを感じた。気まずさが私の心の中を覆っていく。
 私は、これで。たぶんそんな短い言葉を漏らしたんだとおもう。自分でもよくわからなくて、それでもうわずった声だっていうのはさすがに理解できた。体を反対方向に、それから一歩踏み出してその場から離れようとしたとき、次の行動をするのを阻んだのは男性の声だった。
 なにかやったかな、マフラーを渡しただけなんだけど。口の中の水分が突然なくなって、カラカラだ。
「あの」
「ひゃい」
 また声がひっくり返った。
「あぁ、すみません。突然なんですが」
「また、ですか」
 また? 
 ぐるぐるした頭の上に疑問符をいくつも飛ばしていると、目の前に白い長方形が飛び込んできた。そこに書かれた文字を見て、私の肋骨の奥が一度瞬いた。夢の中で見た、あのビーズみたいに。
 
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