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 私に無邪気と呼べる時期は、果たしてどれほどあっただろうか。
 

 古臭いデザインの制服に身を包み電車を待つ。母親の背で静かに眠る赤ん坊を横目で見遣った時に、そんな無意味な問いが脳裏を掠めた。
 物心ついた時、とまではいかないものの、早い段階から私は、他の人間たちよりも遥かに恵まれた環境にあるのだと理解していた。
 一般家庭などとは比べるに値しないほど生活は豊かだったし、欲しいと思ったものは欲しがる前に買い与えてもらえた。私は自分から物を強請るような質ではなかったが、たった一個のチョコレートや玩具欲しさに床に這いつくばって泣き喚く同年代の子供を見ると、嘲笑を通り越して哀れとすら思った。
 しかしその一方で、私を取り巻く『恵まれた環境』は突けばすぐに倒れる張りぼてだということもちゃんと理解していた。
 両親は私に興味がない。私も両親に対する興味は皆無だったからお互い様とも言えるが。とりわけ父は幾つもの会社を経営していた為、家や育児のすべてを母に丸投げしていた。
 そのくせ世間からの評判や体裁を気にし、私を飾り立て見世物のように扱った。優秀な自慢の娘、というレッテルを私に貼る。そうして良き父親というレッテルを世間が貼る。
 成績は常にトップを維持、勉強でもスポーツでも芸術でもテストは満点でなければ意味がない。99点と0点は同義だった。
 何をしても父からは褒められず、出来なければ叱られた。口汚く罵るわけではなく、私がいかに劣っているか、これくらいのことも出来ない人間に価値はないと、努めて冷静に説かれた。泣いても許されず、泣くことすら醜いと切り捨てられる。思えば私が人前で涙を流したのはこの時が最後だ。父の許可を得なければ父の前で口を開くことすら許されない。
 ――私は父親に逆らえない。
 幼心に強く焼き付いた、憎しみにも似た恐れは今も消えない。
 

 父とは月に一度顔を合わせれば多いくらいで、家に帰って父の磨かれた革靴が玄関先にあるのを見ると酷い嫌悪感に襲われる。
 家族の為に働く、なんて殊勝な男ではない。仕事をしている自分に心底陶酔し、それに追随してくる権力や金や人間を睥睨して悦に浸っているのだ。
 べつに、欲しがる人間を卑しいと足蹴にするのを悪趣味だとは言わない。とても高尚な趣味だ。そこだけは同意する。
 けれど、人々は決して父そのものに媚びているのではない。父の背後にある権力や金に跪いて媚びへつらっているだけなのだ。
 
 哀れで滑稽なひと。誰も貴方自身に興味はないのに、それに気付きもしない。それとも気付きたくないだけかしら。
  私ならもっと多くの人間――下僕、或いは豚――をこの身の前に、財前時子の名の下に跪かせることができる。そこに金も権力も必要ない。
 

 どんなに内心で父を見下していようとも、所詮自分は扶養されている身だ。私はさっさと自立したかった。けれど例え親元を離れたところで、このままエスカレーター式に大学へ進学することは既に決定事項である。
 そうして大学を卒業したあとも、就職先は父の系列会社で与えられた仕事だけを淡々と消化し、父が適当に見繕った豚と見合いをして夫婦生活の真似事をする未来が用意されているのだろう。家族や私に対して冷め切った態度の父が何故そこまでするかと言えば、単純に会社の跡継ぎが欲しいからに他ならない。豚と子を成して跡継ぎを産んでしまえば私の役目は終了だ。
 全ては父の思惑通りに。そこに私の意思など介在しない。
 なんて退屈な未来予想図だろう。こんなの地獄絵図だ。考えただけで吐き気がする。胃の内容物がせり上がってきそうな不快感をどうにか押し込めながら私は歯を食い縛る。拳を握って掌に爪を食い込ませる。
 くだらない。
 くだらない、下らないくだらない下らない!!
 私の貴重な時間が他者によって浪費されることは決して許されない。私は何人にも支配されない。飼い殺しにされてたまるものか。
 親の自己満足の下、家畜のように囲われ知性のない操り人形に成り下がりたくはない。私は父の予定調和に反旗を翻したかった。
 

 ホームに視線を巡らす。
 母親と赤ん坊、群れる学生、携帯片手に頭を下げるサラリーマン、カップル、疲れ顔のOL、ゲームに夢中の人間。
 ふと目に付いたディスプレイ広告には、安っぽいセットでヘラヘラした笑みを貼り付けた女が映し出されている。
 その下には『待望のニューシングル発売決定!』とセンスのない煽り文句が表示されていた。通りがかりの学生が「あ、昨日テレビに出てたアイドル」と指をさす。
 私は画面に映るあの女の顔も名前も知らない。そもそもアイドルなんてものに一切の興味はない。
 空っぽな頭でほんとに幸せそう。下品なくらい露出の多い格好で下衆の視線を一身に受けて。恥晒しもいいところだ。
 
 それでも、あの画面の中のアイドルは私よりもずっと自由に見えた。重い足枷も不自由な首輪もない。思いのままに歌って踊る姿はまるで自由の象徴のようだった。
 私が唯一望んでも手に入れられなかったものを、あの子は持っている。
 
 ――羨ましい
 
 向かいの列車のベルがけたたましく鳴り響いた。はっと我に返って、一瞬浮かんだ考えに思わず自嘲する。
 
 ――羨ましい、ですって?まさか。この私が他者を羨むなんてあり得ない。持つ者と持たざる者に二極化されるこの世界において、私は生まれた時からの絶対的勝者。ましてあんな知性の欠片もない人間に羨望を抱くはずがない。
 
 苛立ちと共に髪を掻き上げ、馬鹿げた思考を振り払う。
 私はどんな時も財前時子でなければならない。財前時子は弱みを見せるような人間ではない。財前時子は常に完璧でなければならない。わたしは、財前時子は。
 
 本心の在処なんてとうの昔に見失っていた。自分を抑圧しているのは父か、それとも自分自身か。
 
 
 
 『財前時子』を規定してくれる他者を、私はずっと探している。
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