top of page
 私は不思議の国のアリスではありません。
 白ウサギを追いかけて、ワンダーランドへなんか迷い込みません。
 だって私は現実の存在。虚構の世界の住人ではないんですから。
 ルイス・キャロルの創作物なんかでは、ありません。
「アーリースーちゃんっ!」
 クラスメイトはそうやって私に話しかけます。
 にやにやといやらしい笑みを浮かべる彼女たちは、私が名前で呼ばれるのを嫌っていると知っているのでしょう。
 現実は嫌なことばかりです。
 けれど私は現実に生きています。虚構の世界へは逃げません。
 橘ありすという名前を、どれだけ呪ったことかわかりません。
 けれど私は私の名前が嫌いではありません。
 むしろ素敵な名前だと思います。好感が持てます。
 その証拠に、両親に名前を呼ばれるのは許せます。
 なのに、それでもこの名前を呪ってしまうのは、私を呼ぶクラスメイトたちが、「ありす」と、正しく私の名前として発声していないからだと思います。ひらがなでなく、カタカナのアリスなんです。
「失礼ですけど、私のことは橘と呼んでください」
 これも何度目の問答かわかりません。10回は繰り返してます。
 けれど、クラスメイトが懲りることはありません。
 ずっとずっと彼女たちは、私を「アリスちゃん」と呼び続けます。
「えー、やだよー。アリスちゃんはアリスちゃんだよねえ?」
「ねえ? そりゃーさー? アリスちゃんって呼ぶでしょ」
 私は現実主義者です。
 好きな小説のジャンルだって本格ミステリです。
 虚構の世界なのに論理に縛られていて虚構とは程遠い世界だからです。
 きっと彼女たちは子供なんです。
 虚構の世界に囚われているんです。
 だから現実と虚構をごちゃ混ぜにして、私のことをからかうんです。
「私は、橘ありすです」
 歌が好きです。子供の頃からずっと。
 そこにはきっと何の主義主張もなくて、我ながら純粋に好きなんだと思います。
 物心ついた頃にはもう、将来は歌に関する職業に就こうと決めていました。
 可能ならば、歌手になりたいです。
 私は考えました。
 私のことを、正しく認識できないんなら、認識できるようにさせてあげれば良いんです。
 橘ありすが、不思議の国のアリスよりも一般的な固有名詞になれば良いんです。
 私が歌手になることでそれは叶います。
 私は歌手になります。
 橘ありすの名前を世に知らしめるんです。
「え? 何言ってるの?」
「あーもう、待ってよ、アリスちゃん」
 と、虚構の名を呼ぶクラスメイトを置き去りにして。
 行動を起こすのは、早いに超したことはありません。
◇ ◆ ◇
 
 幸いなことに、どの音楽会社もデモオーディションに年齢制限はありませんでした。
 私にとって一番の障害は年齢です。
 まだ私は11歳。この年齢は、きっと選考には不利に働きます。
 審査員に見くびられる可能性があるからです。
 スキルが十分なら問題ないかと私は思いますけど、そう思わない人もいます。
 私には経験がありません。スキルだけでは埋められない部分があると、判断されるかもしれません。
 私の持てる武器は、歌唱力だけです。
 歌を聴き続けました。歌を歌い続けました。
 カラオケボックスの採点でも100点を連発します。
 我ながら透き通るような声だと思います。音程は全然外しません。完璧です。
 確かに、芸能界のトップを走り続ける、かの歌姫には及びません。
 でも私だって、最低限のスキルは持ち合わせています。
 運悪く何社かは不合格になってしまうかもしれませんけど、少なくとも一社は私をデビューに導いてくれるはずです。
 音源の録音はカラオケ店を使いました。父はスタジオを借りようと言ってくれましたけど、甘えるわけにはいきません。ネットで調べたら、十分な録音機器の揃った店舗がいくつも見つかりました。車だけ、父に出してもらいました。
 同時に多数の選考にデモを出すのは不義理かと思い、私は一社ずつ応募することにしました。弁えています。
 なにより重要なのはスピードです。一刻も早く、私はデビューする必要があります。
 だから、応募はメールで行います。郵送よりも合格が決まるのは早いはずです。
 そうして、とある音楽会社へデモ音源を送信してから、二週間が経ちました。
 メールの返信は未だありません。
 よく見れば、応募要項に『審査通過者にだけ連絡』と書かれていました。
 なるほど私は、審査に落ちてしまったのだと思います。
「こういうこともあります。予測していました」
 口に出してそう言うと、すんなりと落選を飲み込めました。
 いきなり審査を通過するなんて虫の良い話です。
 少しくらいは挫折を味わった方が、きっと将来の私のためになります。
「こういうこともあります」
 二度目を口にすると、心なしか胸がきゅうと締まったような感覚を覚えました。
 ――――。
 気を取り直します。二社目の応募です。
 前回は音響が悪く、私の歌声が審査員の耳に届く頃には、ひどく汚れてしまっていたのかもしれません。
 だから今度は父の言葉に甘えて、小さなスタジオを借りました。レンタル代は、私がデビューしたらすぐに返します。
 よし、会心の出来。これなら大丈夫。リテイクを重ねて、完璧なものを選びました。
 メールを送信。
 あとは待つだけ。デビューが待ち遠しいです。
◇ ◆ ◇
 
 ――一ヶ月が経過して。
 それでもメールの返信は、ありませんでした。
 
◇ ◆ ◇
 
 録音して、応募して。
 何度繰り返したかは正確に覚えています。11回です。
 音楽業界を志してから、すでに半年が経過しています。
 私は誕生日を迎え、12歳になりました。
 一度も、審査合格の連絡はきてません。
 こんなはずありません。
 どうして私が審査に通らないのか、皆目、見当がつきません。落選の理由がありません。
 ――――。
 嘘をつきました。
 私は馬鹿じゃないんです。見当、つきます。
 理由があるとすれば、信じたくはないですけど、一つしかありません。
 ――私に、歌手になるためのスキルが足りてないんです。
 でも、それは、理由があるとすればです。
「理由があるとすれば、です」
 口に出して言い聞かせます。
 たんなる偶然。運悪く審査員の耳に留まる歌声じゃなかっただけ。たまたまの可能性の方が高いんです。本当は、落選の理由なんてありません。偶然です。
「ねー、アリスちゃーん? 何喋ってるのー?」
「あはは、独り言? どうしちゃったの?」
 クラスメイトは相変わらずです。
 私が歌手としてデビューしない限り、呼称は『アリスちゃん』のままです。
 嫌になります。
「どうも、してません」
 普段なら呼称を訂正するところですけど、疲れてるのでしょうか。
 でも、訂正してもどうせ直らないんです。
 言ったって仕方がありません。
 仕方がありません。
 ……そうやって、私はいつか諦めるのでしょうか。
 歌手を。私の存在を。
 私は、橘ありすだということを。
 こういうのを、『大人になる』というのでしょうか。
 私にはわかりません。
 けれど、『大人になる』ことで諦めなければならない何かがあるなら、私は子供のままで構いません。子供と呼ばれるのを許します。……非常に、不本意ではありますけど。
 ――チャイムの音が鳴り響き、いつの間にか放課後を迎えていたことに気付きます。
 誰とも話をしたくなくて、私は一人で帰路につきました。
 先生にはみんなと一緒に帰るよう言われてますけど、大丈夫です。いざとなったら防犯ブザーだってあります。
 繁華街の雑踏の中、ざわめきに耳を傾けると、なんとなく寂しい気持ちを覚えます。
 今までこんな感情を覚えたことはありませんでした。
 ……きっと私は、弱くなってるんです。
 どんどんデビューから遠ざかっているような気がします。
 このままではデビューなんて夢のまた夢です。
 追いつかなくちゃいけない場所から、距離を離されています。
 やっぱり私は、諦めてしまうんでしょうか。
 あの場所へ、永遠に辿り着くことはないのでしょうか。
 ――――。
 帰宅すると、リビングに座っていた母から封筒を手渡されました。
 差出人は、とある芸能事務所。
 不思議に思い、封を解いたところで気付きました。
 この事務所へは、先日、デモ音源を送っていたのです。他の会社と比べて、プロフィール欄の記入箇所が多く用意されていたのでよく覚えています。
 激しくなる動悸を抑え、文面に目を落とします。
『最終審査のお知らせ』
 ふっと胸を締め付けていた力の弱まるのがわかります。
 ……ああ。
 なんだ、通るじゃないですか。
 私のスキル、やっぱり足りてたんです。
 悩んでいたのが馬鹿みたいです。思い詰めること、ありませんでした。
 偶然だったんです。こうして、通るところには通るんです。
 プリントの最後まで目を通します。
 そこで、違和感のある一文に出くわしました。
『※歌手部門でなく、アイドル部門の審査となります』
「アイドル部門?」
 そんな部門に応募した覚えはありません。
 ……この但し書きは、私にとってあまり喜ばしいものではありません。
◇ ◆ ◇
 
 悩みました。
 私が目指していたのは歌手です。アイドルではありません。
 目的を変更することにも、なりかねません。
 そもそも私にアイドルが勤まるとも思えません。
 けれど、同時にこうも思いました。
 目的ではなく、手段としてみればどうでしょう。
 アイドルから歌手へ転向する例を、何度も私は目にしてきました。
 とにかくデビューして、私の歌唱力を認めさせれば、アイドルが不似合いだと気付いてもらえたら、きっと私は歌手になれます。
 手段として、アイドルになるのも一つの手でしょう。
 ――手段。
 手段ということなら、最上の目的は『私の存在を認めさせること』。
 これは俗に承認欲求と呼ばれるものです。調べました。子供だけじゃなくて、大人にもあります。
 承認されること。橘ありすを、クラスメイトが、世界中が、不思議の国なんかじゃなくて、現実の存在だと認めること。ここに私が存在すること。それを認めさせること。
 その結果に到達しさえすれば良いなら、アイドルも歌手も大きな違いはありません。
 アイドルだって歌は歌えます。ついでに舞台で踊ったりもするでしょう。
 踊りもまあ、嫌いではありません。
 それなら、答えは決まっているはずです。
 私は、プリントに書かれていた電話番号をコールし、最終審査へ臨む意思を担当の方へ伝えました。
 
◇ ◆ ◇
 
 最終審査の内容は、面接。
 趣味や所属しているクラブ、学校の成績のことなどを訊かれました。
 ずいぶんプライベートの質問が多いものです。
 面接の最後で訊いてみると「アイドルの審査だからね」とのことでした。
 審査が終わって父の隣で帰り支度をしていると、先ほどの審査員の方が現れて虚構の名前を呼びます。
「アリスちゃん」
「……橘、と呼んでください」
 苦笑を浮かべた審査員の方は、父に「娘さんを少しお借りします」と声をかけます。
 父が首肯するのを認めて、審査員の方は私へ顔を向けました。
「付いてきて」
 案内された場所は、小さな会議室でした。
 真っ白いテーブルが一つ。それに、対面になるように椅子が二つ並べられています。
 審査員の方が奥の椅子へ座ったので、私は手前へ。机の上には何も置かれていません。
 私が腰をおろすと、審査員の方が口を開きました。
「結果から言うと、審査は合格だよ」
 ――――。
 ふわっと、感情が舞い踊るような気がしました。
 あっけないものです。
 けれど、目的への第一歩が踏み出せたんです。嬉しいに決まってます。
「ありがとうございます」
 と、口にする間も、浮ついた気持ちに頭の中が支配されているのがわかります。
「嬉しそうだね。いや、そりゃそうか。当然だよね」
「……わかるんですか?」
 表情には出していないつもりでした。
「まあ、職業柄、感情を読むのはそこそこ得意だしね」
 そこまで言って、彼は懐から名刺を取り出しました。
「私は事務所でアイドルのスカウトを担当してるんだ。普段は街中をうろうろしてるんだけどね、審査の時なんかは手伝いをさせてもらってる」
 名刺を受け取って、そこに書かれた役職名を確認します。
 ……えっと。
「あの、スカウトじゃなくて、この事務所の代表取締役って書いてあるんですけど」
「よく気付いたね。まぁ、社長なんてそんなもんだよ。あとはこうやって、新人アイドルの案内役を務めるくらいで。いや実は、社長って呼ばれたくなくて、社内でも『スカウトさん』って呼ばせてるんだよ」
 なるほど、社長という肩書きにしては随分若く見えますから、なんとなくお気持ちは察せます。
「ああ、案内するとはいっても、君が断れば話は別だ。君一人を呼んだのは、今後の話をする前に、まずは君の意思を確認したかったからなんだよ」
「……意思、ですか」
「そうだよ。あのさ、アリスちゃん。私が社長と呼ばれるのを嫌うように、君はこうやって名前で呼ばれるのが嫌だって、面接で言ってたよね」
「はい」
「だったらあえて伝えてあげよう」
 社長――いえ、スカウトさんは、こほんと咳払いをして、
「ようこそアリスちゃん、ワンダーランドへ」
 胸にどすんと黒いものが落ちてきます。
 どうして、私が嫌だと思うことをするんでしょう。
「私はワンダーランドへなんか行きません。ここは現実世界です」
「そう、紛うことなき現実世界だ。だけど、ワンダーランドは現実に存在するんだ。君はそんな場所へ、これから足を踏み入れることになる」
「どういうことですか」
 何かの比喩でしょうか。アイドル業界を、ワンダーランドに見立てているのでしょうか。でも、現実世界で不思議なことは起こりません。
「詳しい説明はやめておくよ。君にはまだ私の言葉の真意は伝わらない。だからこその合格なんだからね」
「……だからこその合格」
「うん。悪いけど、こういう曖昧な表現で納得してもらうしかない」
 スカウトさんが顔をずいと近づけます。
「ワンダーランドでは、君の常識では説明のつかないことが起こる。そしてそれを君は、受け入れなければならないんだ。君はまだ、自分を取り巻く環境に、自分の魅力に気付いていない。向かう場所さえ、おぼろげだ。それでも君は前へ進まなければならない。ワンダーランドを飲み込み、自分と闘うんだ。必要なのは覚悟だよ、アリスちゃん?」
「――覚悟、ですか」
 スカウトさんの言っていることは、やっぱりよくわかりません。
 でも、覚悟が必要だというのは、飲み込めました。
 自分が『社長』って呼ばれるのが嫌なくせに、何度も私を『アリスちゃん』と呼ぶのも、きっとその覚悟を試してるんだと思います。
「わかりました。私に折れなくちゃいけない部分があるなら、そこはプロとして、きちんと折れます。舞台へ上がるための切符を手放すほど、私は愚かではありません」
「うん。よろしい」
 満足した様子でスカウトさんは頷きます。
「私からの話はこれで終わりだ。あとは担当のプロデューサーに引き継ぐことになる。唯一、ワンダーランドの中で彼だけは君の味方だから信用すると良いよ。チェシャ猫みたいなもんだね。……まぁ、当面のプロデュース方針は僕の決めたものに従ってもらうけど」
 スカウトさんの話には、現実と虚構が織り混ざっています。私のクラスメイトのようです。けれど、そこを追求しても、きっと今は答えてくれないのでしょう。
「じゃあ最後に、何か質問はあるかな?」
 そうなると、どうしてもこの場で訊いておきたいことは一つだけです。
「あの、私はどうして合格だったんですか」
「……ん、何でそれを知りたいの?」
 眉をしかめたスカウトさんに向かって、
「もちろん、今後の自分に生かしたいからです」
 私が言うと、一瞬間を空けて、スカウトさんは声を上げて笑い出しました。
「なんですか、どうして笑うんですか」
 スカウトさんはひとしきり笑うと、静かに答えを返します。
「そういうところだよ」
「何がですか?」
「合格の理由さ。大まけで教えてあげる」
 スカウトさんがこちらを指さします。
「ありすちゃんが、可愛いから」
 ――――。
「私は、可愛くなんて、ありませんっ!」
 子供だと思ってふざけないでください。失礼です。
 私がそう続けると、スカウトさんは「真面目に答えたのになあ」と嘯きました。
bottom of page